小さな詩人たち

はみがき


はだかで はをみがくと ちんちんがゆれます

(まつした やすゆき)


この詩?を最初に読んだときにころげるほど笑った。“そうだな。女にはわからんだろうな、コレって?!“
それから、歯を磨くたびにこのことばを思い出す。(裸では歯を磨かないが……)

これは『一年一組  せんせいあのね』(鹿島和夫/灰谷健次郎)という本の中に載っていたもの。

(……と言っても、実物は手元にない。誰かに貸してそのままになっているようだ。)

アメリカン・インディアンは生まれつきの詩人だという。もちろん天与のものはあるのだろうが、セカンド・ラングエッジの英語を豊富ではないボキャブラリーで語るので、かえって深遠な詩的な表現になることは想像に難くない。
その伝で言えば、子どもも十分に詩人だ。

この本は大学を出て小学校一年の担任になった鹿島和夫さんが生徒とのコミュニケーションを密にするために、「あのねちょう(帳)」というものを作り自由になんでも書かせたものの中から採録している。つまり「ことば」を綴っているのだが、それが天然自然に「詩」になってしまっている。



もっと“詩人“たちのことばを読んでみよう。

けんか


くちげんかは
おとうさんがつよくて
ぼうりょくげんかは
おかあさんがかちます

(くぼ かつよし)

(※母は強し!)


すきなもの


ぼくがすきなのは
ふゆやすみとはるやすみと
なつやすみとずるやすみです

(くぼ かつよし)


(※そうかァ、ずるやすみも入るのか?)


つり

                     
おとうさん いつもつりにいっとうのに

おかあさんは いちばでさかなこうてくる

(よしむら せいてつ)


(まだ不条理に慣れていない。)


すきどうし


おおはたさんはかじくんがすきで
かじくんはおおはたさんがきらいで
かじくんはわたしがすきで
わたしはかじくんがきらいです
せんせい こういうとき

どうすればいいのかおしえてください

(かわつ ゆう)


(※世の中ややこしい……)


丸谷才一さんが『袖のボタン』という随筆集の中で次のように述べている。

「詩はレトリックと音楽とを同時に表現するものである。この同時性があるからこそ、最上の詩句を口中にころがすとき、われわれはあんなに魅惑される。そして大事なのは、この場合レトリックは詭弁でも欺瞞でもないということである。むしろそれはロジックによってしっかり裏打ちされていなければならないし、……。詩が文学の中心部に位置を占めるのは、単に発生が古いからではなく、それが文学の本質だからである。戯曲も批評も小説も、レトリックと音楽の同時的表現という性格を基本的に持っていなければならない。」

そうなんだ。彼らの“詩“にはレトリックもあるし音楽も聴こえる。


それにしても、「あのねちょう」に子どもたちが最初から自由にのびのびとことばを綴ったわけではないと灰谷健次郎さんとの対談で鹿島先生は言っている。
彼の器量の大きさとか彼らを慈しむ気持ちが生徒に伝わり、心を開いて豊かな表現になっていったのだと思う。こういう先生に恵まれて、学校生活の一歩を踏み出せた彼らは幸福であったと思う。


この『せんせいあのね』ではなく、長らく子どもたちに俳句を教えてきた俳人長谷川櫂という人のブログにあったもの。

せんぷうき
あああああああ
おおおおお

(山本咲良ーさくら)


扇風機に顔を近づけて声を出すと変な声になる。いい大人はやらないが、子どもの頃はよくやったはず。それをこの小3の女の子は五七五でこう表現した。

「私はこれまで大人の俳句ばかりでなく、幼稚園児から大学生までの俳句の選をしてきました。……
おもしろい俳句をたくさん作るのは小学校の四年生、五年生です。日本語の使い方にも慣れてきて、いろんな言葉を使うのがおもしろくて仕方がない年ごろです。
……小学校高学年から中学生以上になると、だんだん大人のような俳句をつくるようになり、逆に子どもの「きらめき」は失われていくようです。そうなると、大人というものは逆に<きらめきを失くした子ども>であるということもできます。」
長谷川櫂さんは言う。


そういえば、こんなことばをどこかで聞いた。

「すべての人の内側には、若い頃に死んだ詩人が宿っている。」


それじゃ〜、amazonの古本で『一年一組  せんせいあのね』を注文して、ゴミやらサビやらを落としましょうか。心の洗濯っていうやつを。


「革命には詩人が必要だ」って司馬遼太郎さんも言っていたし……。



(完)