歯痛はキツツキの嘴に触ると治る

北東アジアに居住するヤクート族(ロシア連邦サハ共和国あたり……)には、古くから……

「 歯 が 痛い 時はキツツキのクチバシに触れると治る」

という言い伝えがあり、信じられている。

歯が痛い。
しかし、彼らには、何が起こっているかわからない。
もちろん、歯痛への対処法もわからない。
原因も理由も何もわからない。
まさにカオスのなかに置かれる。人は、混沌には耐えられない。
そこで、何かしら、起こっている事態を分類し整理し、さらに何をどうしたらどうなるのかという因果の構図を引き出して提供している。

(キツツキのクチバシに触れるチャンスが一体どこにあるのかと問うまい……。)

これは知的欲求に応えたものだという人がいる。つまり、……
「分類整理は、どのようなものであれ、分類整理の欠如に比べればそれ自体価値をもつものである」

クロード・レヴィ=ストロースは著作『野生の思考』のなかで喝破している。

なるほど。
これって、

「ライオンはライオンと名づけられるまえはえたいの知れない凶暴な恐怖であった。けれどもそれをライオンと名づけたとき、凶暴ではあるが一個の四足獣に過ぎないものになった」(開高健訳『動物農場』)

というのと似ている……ような気がする。

(完)

クロード・レヴィ=ストロース(人類学)はフェルディナン・ド・ソシュール言語学)とともに「構造主義」を代表する人である。

メタメタ認知


取引先である会社を経営する年上の男がいた。もう亡くなってから随分経つ。
彼が我が席に立ち寄っていろんな話をしてくれるのだが、この話がなんとも取り止めがない。
他の者もちょっと……いや、相当に辟易していた。
それをみんなが許していたのは、彼のひたむきさと人柄の可愛さであった。


彼は大学を中退している。それがコンプレックスになっていたのだろうか……、大変な読書家であった。そのときどきでブームになった本はもとより、経営、文明論、思想、社会学などなども手当たり次第という感じで読んでいた。
ただ、「人は本を理解できる範囲内でしか読まない」「自分が理解したいように読む」などという言葉があるが、彼の読書はまさにこれであった。


つまり、はっきり言うと壮大な体系とか重厚なファンダメンタルズを持ったこれらのコンテンツを彼は精々のところ3〜4%しか読み取れなかったんだと思う。(よくて…10%)今で言えば、それらの本の「キュレーション」をしてくれるワケだ。ありがたい部分もあるのだが、迷惑の部分の方が遥かに大きい。
というのは、その数%以下の理解では「キュレーション」にはならないので、足らざるを他の本からのもの(やはり3〜4%の理解のものを)とブリッジする。もしくは、自分のオリジナルの考えをミックスさせて説く。
後年は幾多のインテリジェンスを顧問に迎えていたので、彼らの一言半句がさらに挿入されるというテンヤワンヤなのである。


これらの断片たちが散りばめられて(「散らばって」が正しいのだが……)、脈絡がなくなってしまうので、それらをジャンクションさせるのは彼独特の“陰謀論”で糊付けで繋げていく。従って、その不気味にゆがんでバラック造りで倒れそうな建造物は「ゲリマンダー」のように奇怪で怖ろしい。

ゲリマンダーというのは1812年マサチューセッツ知事E.Gerryが自分に有利になるように決めた選挙区画の形が火トカゲ(salamander)に似ていたところからgerry + salamander=gerrymanderという政治用語になった。
因みに、「ウーパールーパー」はメキシコ・サラマンダーの幼態成熟で普通に成熟したら恐ろしげなサラマンダーになる。



※北米の「レッド・サラマンダー」。要するにサンショウウオ


最近では陰謀論に走りやすい精神構造の持ち主を揶揄して“陰謀ポルノ”というが、たしかに彼もややポルノグラフィではあった。
それよりも……。
メタ認知」という言葉がある。つまりは認知を認知すること。 自分の思考や行動そのものを客観的に把握し認識することなどを指す。
司馬遼太郎風に表現すると、「 自分が佇む地平を一旦離れ、翼を得て飛翔し、改めて虚空の彼方から宇宙に接している地平を眺め、そこに存在している自分自身を観る」ということになるのかな……。
だが彼の場合は、短かすぎる翼しか持ち合わせがなく、すぐ落下し、よろよろとそのあたりを這いずり回るだけ。万巻の書を読もうとも、ただただしっちゃかめちゃかの“メタメタ認知” に終止した。


こういう風に書くと故人も草葉の陰で、よくて苦笑、多分激怒していることだろう。
だが、こういう人ってSNSやブログに案外多くてヤレヤレって思うことが少なからずある。
いやいや他人事でもなく、こっそりと我が身の首筋のイヤな汗を拭っている。

(完)

AIが推論してくるもの


「AIが人類の最後の発明になるだろう」
(ニック・ボストロム博士:オックスフォード大学)

ぐふっ!ってなった。自分が今まで何の発明にもまったく関与してこなくて、今後もないのだが、その可能性さえもあり得なくなることを嘆いているわけではない。
いままで人類が数限りない発明・発見を積み重ねてきて、人類を繁栄させてきた。それが大団円を迎えるのか……という嘆息というか気落ちである。
言われてみれば、AIの誕生以降は以後の発明はAIの担当するところとなるのね。

それにしても、1968年製作されたスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』のなかで、「HAL」という名のAIを観てからたった50年で現実のものとなって来る。

人類の好奇心、探究心そして切磋琢磨も大したものだと思う。



  

2年後にAIが人類の知能を凌駕する“シンギュラリティ”が迫ってきているって言われている。
社会、文化、経済、テクノロジィーに大きなウエイブ(……いや、構造変革とか革命)が来ることは容易に想像できる。
で、ぐっちゃらぐっちゃらの政治へのAIの導入はどうなんだ?「政治は感情である」といわれるその分野は?

“どちらのウンコがより臭わないか?”なんていうlesser evilの政治ゴッコにはコチトラもう心底飽き飽きしている。
ファージーな人間らしさとか義理とか人情、面子とか立場などにもウンザリを通り越している。
“政治は勘定だ”というカネまみれ腐敗・汚職まみれも胃袋ひっくり返るほどの反吐が出る。

AIによるビッグデータからの解析そして冷静な推論、さらに人類の未来を組み込んだ透徹した判断を望みたい。

シンガポールではこの政治へのAIの導入へ実際のトライアルに入ったという噂を聞いたことがある。
国父リー・クアンユーに永らく統率されていて、めでたく息子に「開発独裁」を移譲出来た“明るい北朝鮮”のシンガポールであれば、AI導入は比較的容易なのかもしれない。

だがそうでもない。
野村総研」などがまとめた日本の産業界まわりでの「AIに負ける仕事は」という仮説で、
公務員事務職、政治家、会計士、金融、記者…などが挙げられている。
http://ameblo.jp/karurosu2013/entry-12129904659.html


さらにもっと踏み込むと、AIは政治とか経済の面にだけ変革を強いてくるだけではないかもしれない。

いまわれわれは辛うじて「民主主義」の中にいるのだが、そのシステムだってベストだとも思わない。「民主主義」にはさまざまなコメントがあるが、そのなかで3つほど。


❏民主主義とは、半数を越える人々の選択が、二回に一回以上は正しいかもしれない、という仮定の上に成り立っている。
(E.B. ホワイト)▶アメリカの作家。数々の評論・詩・小説を発表>

❏民主主義は最悪な政治だが、これまで存在したいかなる政治体制よりもマシである。
(ウインストン・チャーチル

❏人類の貧困を生産する作業に加担して、骨の髄まで腐っていない民主主義国家は存在しない。
(ミッシェル・フーコー


AIがこの「民主主義」という政治体制とか「資本主義」という生産様式の“その先”を提示してくれるかも知れないのだ。
人類は永らく最大多数の人々の腹を満たし、より多くの人々の幸福を成就させるシステムが探してきて、一つの到達点が「民主主義」✕「資本主義」なわけだ。(もしろん、異なるシステムで国家経営している国もある。)
しかし、必ずしもこのペアリングが最終到達点ではないことは人類の歴史の顰みに倣えば解る。
必ず次のステージにジャンプしてきた。

結構刺激的な世紀になるのじゃないかな?

こういう言葉もある。

「人間は本来、もっと違う生き物なのではないかと私は考えています。人生の7割を労働に捧げ、その多くが苦心を伴うものだというのは、人類にとって本当に豊かなことなのでしょうか?
労働文脈では、まるで“シンギュラリティが私たちから仕事を奪う”といった論調が目立ちますが、そもそも人間が"働きっぱなし"の生き物になったのは僅かここ300年ほどの出来事です。歴史から見ても、日本などの先進国における人間の働き方は、そもそもイレギュラーなのではないか、と私は考えます。
(メタップス社長 佐藤 航陽)

10時頃、会社に出て、いろいろウオッチして2つ3つのキーを叩いて仕事自体は終わる。のちは職場仲間と情報交換とか交流をしながら会社のカフェでランチをする。そして退社する。あとは、自分自身がオノレに課したタスクに向かう。

ハレルヤ!だ。


(完)

道半ば












◾️ジョブスの追悼式で彼の妹で作家であるモナ・シンプソンがとても長い弔辞を捧げた。その最後の方のフレーズ……。

“We all — in the end — die in medias res. In the middle of a story. Of many stories.”

「私たちは誰でも結局“道半ば“で倒れるのです。たくさんの物語の中のある一つの物語の途中で」


と追い込んでいくレトリックにしているんだろうとは思った。
(in medias res=イン・メディアス・レスは“物事の中途で“というラテン語。これでサビを効かせているんだろう。)

日頃英語を喋っている人に確認したら、そうだといってくれた。
でも、さらに深掘りしてくれた。many storiesというのは「輪廻転生」も 含んだコンセプトかもしれないよって 。
頭の中で、火花が散った。

スティーブ・ジョブスは「一身にして二生」どころでない人生を折り重なって送ってきたので、それをmany storiesと表現したのだろうと思っていたが、それだけではなく、「輪廻転生」してきたいくつかのあの世まで含んだ ものをstoriesの中に包含しているのだろうと彼は言うのだ。

ティーブは何度か転生してきていて 、今回の生(せい)でわれわれにAppleを 見せてくれたのだろうか?


◾️山崎豊子が70歳を超えたとき、引退を決意して新潮社の斎藤十一氏の元を訪れたら、

「芸術家に引退は無い。書きながら棺に入るのが作家だ」

と言い放たれたという。
すでに80歳を超えていた斎藤氏は「私の葬式も近いので、生前香典代わりに新作を頂戴したい」と続け、その叱咤激励に山崎豊子が書いたのが『沈まぬ太陽』だったという。


◾️ファッションデザイナーの山本耀司も、インタビューに答えて……
次のように述べている。

「どのシーズンもどの年もどの瞬間も、
私は自分の義務を果たし続ける。
多分、リタイアはしない。
働く一生を送り、仕事中に倒れるのが私の理想だ。
覚悟はできている。
人々を興奮させたり、失望させたり、
その準備はできている」


そうなんだよね。「道半ば」がどうした!生きるってそういうもんだ……と聞こえる。

「人はチャレンジして後悔するよりもチャレンジせずに後悔する方が酷い」という。
チャレンジしている限り、いつかは「道半ば」になるのだ。いわば、それが勲章なのだ。

それにしても、

「人生というのは、誰にとっても、いつ、どんなタイミングで終わったとしても〝やりかけ“になってしまうものだ」
とか
「人生はいつもちょっとだけ間に合わない」

というのは切なくなるし、

「死ぬとわかっていてなぜ人は生きていけるのか?」

という根源的な問いは根源的に辛い。

(完)

オリンピック雑感


「リオ・オリンピック」をさっぱり観ない。余儀なくニュースで取り上げるので、“ああ、そうか“という程度のことで終始しているが、もう中盤に差し掛かってきているんだよね。

1996年の「アトランタ・オリンピック」をアメリカで観ていた。これがまるで面白くない。
アメリカはスポーツの大地である。Sportsというのは英語じゃなくてアメリカ語なんだよねって思うくらいだ。この広大で多様性に富む国土は様々なスポーツが可能だし、その設備もリッチだ。さらに加えて、新たなスポーツを次々と“発明“してきた。(バスケットボール、アメリカン・フットボール、サーフィン、カヌー、ハングライダー、スケートボード……などなど枚挙にいとまがない。)

アメリカに存在する駐車場の総面積は概算でプエルトリコに匹敵する」という統計があったが、同じく三分の一くらいはバスケット・コートの総面積になるじゃないの?って思う。屋外駐車場の敷地の中には必ずと言っていいほどバスケットが設えられている。

話を戻して、その「アトランタ・オリンピック」。

日本人にはあまり馴染みがない種目でルールも知悉していない競技も含めて“くまなく“アメリカ人の選手が出場している。それらを丹念にテレビカメラは追いかけるのだが、視聴している日本人のこちらとしてはinvolveなんかさっぱりできない。
当たり前だ。オリンピック視聴というのは、オリンピック憲章の底流に流れる相互理解の世界市民なんかじゃなく、偏狭なナショナリズム国家主義)の切っ先を改めて研磨して鋭くさせるための装置じゃないのかって思うくらいに、極めて“国粋的“心持ちで没入するものだ。

今やっている「リオ・オリンピック」も「日本選手」が金だ、やれ銅だ、でニュースにされる。その他の悲痛な顔の選手はほんの申し訳程度に触れる。(頑張って頑張って、それでも4位とか8位になった選手にも賞賛とか顕彰があってもいいのじゃないかとは思う。「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」とか能書きこいていたんじゃね?)

つまり、同じこの“大運動会“を世界で等しく観ているようでも、それぞれの国の人々はそれぞれのフィルターで掬い上げてきたものを観ていて、それを「オリンピック」と見做しているだけなんだ。

「オリンピック憲章」の6章目には……
「オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある」
……ってかっこよく謳っているが、画に描いた餅なんだよ。一番自己撞着を起こしているのは「難民選手団」だと思う。

オリンピックはずいぶん長いこと「平和でより良い世界を作ることに貢献」してきたんじゃないの?だが、お題目だけで未だになんの力にもなっていないってことだよね。「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」という言葉のなんと虚しいことか。四年に一度オリンピックを開いたところで、相も変わらず戦争は終わらないし、テロは続き、難民はとめどもなく流れ出てくる。

さらにさらに。
古代オリンピクを復活させたクーベルタンの精神とはウラハラのオリンピック組織委員会のマフィア化、巨費化、権利ビジネス化、果ては、アスリートそのものへ国家ぐるみでのパトロン化(ステート・アマ……まあこれはプロの参加許容で薄まったけど……)、 ドーピング問題、年齢詐称、国籍移動……。まるで、詐欺詐称、ごまかし、賄賂、イカサマなどなど“悪のデパート“状態。贅肉ダブダブ、ラードどろどろで賞味期限はとっくに切れている。クーベルタンの精神などどこを探してもカケラも微塵さえもない。虫眼鏡を使っても、ない。

これらバックヤードの薄汚い話は自然と漏れ伝わってくるわけで、一般の人々にもシラケを蔓延させている。

かてて加えて、友人がボソッと呟いた極めて日本的なことが一番しょんぼりと項垂れるかもしれない。

「このなかから、また国会議員が出てきたりするんだろうな。小脳だけ発達したバカ議員がね……」

やるせないねぇ。はぁ〜……。

(完)

※これはFacebookのタイムラインの8月9日の「松本薫」と8月10日の「アトランタ・オリンピック」を纏めて加筆編集したものです。

民は愚かに保て……か?

軽井沢で二日連闘で息子とゴルフ。ブルーマークのバックティからやろうという。受けて立ったのはいいが、毎ホール、ティーショットで常に80ヤード前後は置いていかれて、ゼーゼーハーハー。ヘトヘトで新幹線で帰京。

夜の9時頃、帰宅した途端に風呂の蛇口が壊れて、水が出っぱなし。盆休みで人がいるのかどうか?とにかく、電話をすると水道局の下請けのテクニシャンが一時間ほどで来てくれて、あっという間にフィックス。「もう相当に古くてガタ来てますね」「ま、もう16年ほどは使ってますから……」

その同じ日、エアコンが効かない。翌朝、これまたメーカーの修理セクションに電話。明日の日曜日10時には伺いますと。

そこへ軽井沢からの宅急便のゴルバッグが届く。

日曜朝。坊さんが棚教を上げに来る朝でもあり、両テンパイ。
坊さんも来て、エアコンのテクニシャンも到着。坊さんはカミさんに担当を任せ、こちらはエアコン担当。
ちらっと室内のエアコンを見て、「室外機の不調ですね」とポツリ。室外機のカバーを外して、「あ、やはり冷媒ガスが抜けてますね。30〜40分で治ります」
額に汗しているその30前後の男の頼もしいことと言ったら。


オランダのジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレン の『民は愚かに保て』 という名著がある。「見えない権力」をさらに強固にしているのは大新聞と官僚であると喝破した著作。“擬装民主主義国家“の病根にメスを入れている。


だが、この二日間で感じたのは、日本の労働力(技術、サービス)の品質の高さだ。
どっこい!「民は賢い」ということだ。
このダンドリの良さ、オン・スケジュールへの実直さと柔軟さの両立というのは、日本が米作農業で永年培ったものだと誰かが言っていた。つまり、「米つくり」というのは周年で気まぐれな天気天候を睨みながら、段取りに次ぐ段取り。段取りの結晶のようなもの。それが民族のDNAに落とし込まれているんだという。

アメリカで同様のケースが発生して、テクニシャンを待つのに、軽く3日から一週間は掛かる。それで直れば、幸運だ。
かつてニューヨーク・タイムスが、ボディショップ(車修理)に車を出して、使用前・使用後の状況を密かに調査したところ、以前より車の状態が悪くなったのが全体の30%くらいあったのにはひっくり返ったが、これがアメリカの現実。

アメリカ人男性の重要な教養科目にDIYがある。これはもちろん開拓者魂の一環で丸太小屋を自ら作り、生活周り用品も自分で工作するという伝統に依っていることはもちろんのことだろう。だが、現在ではアメリカ人自身がその種の労働力の質を信じてないことが、Do It Yourselfへドライブを掛けていると思う。

私は必ずしも、“日本は素晴らしい““日本民族は優秀だ““日本に生まれてよかった“音頭をアホのように楽しげに歌う人ではない。だが、この二日間の出来事にはうむむむ!と唸らされた。
それにしてもだ。
日本の行政、官僚、大新聞は日本の無辜の民の優秀さ・賢さに甘えているんじゃないの?と深々と思う。

(完)

チャンプ

叔父の影響もあったのだろう。(七段だったか……を持っていた。)高校時代は柔道をやっていたが、二段をとったところで、受験勉強に入って止めた。

大学に入り、体育の時間に何かを取らなきゃならなかった。オサレなテニスなんて思ったが、貧乏学生とすれば、用具、コスチュームにカネが掛かるのが、痛い。却下。
柔道着なら汗臭くとも、高校時代のものがあるぞとエントリーしたが、抽選に漏れた。さあ〜てと、と見渡してみたら、ボクシングが定員に満たずで、アキがある。単位のこともあるので、渋々そこに潜り込んだ。

講師は思案の外で、年寄りで、小柄で、優しい人柄であつた。彼だったから、ドロップアウトしないで、続けたのだと思う。

ボクシング・グローブとは言っても、スポンジがたっぷり入ったアマチュア用のもので、プロ用のモノと比較すると2倍もある。それをそれぞれの受講生が両手嵌めている風景は「のらくろ二等兵」(古い!)の集団のようで滑稽の二文字。


その“おじぃちゃん“から、足の運びと基本のキを習う。つまり、ジャブ。ストレートでもなければアッパーカットでもない。左から繰り出すジャブ。相手もジャブ。そのジャブを右のグローブで右か左に流して、それに交差するように左のジャブを打ち込む……というもの。それをステップと連動させながら体育の授業のある週一回、倦まず巧まず実直に反復練習をする。来る日も来る日もこれだけ。

夏休みが明けてからは、ボクシング部員のアシスタントとのスパーリングが始まる。こちらと大して年齢が変わらぬ彼は、ただただガードだけで一向に攻撃はしてこない。カマキリのように両肘を掲げて、それで顔面と腹部のすべてをガードする。それに苛立ち、闇雲にジャブ(これしか習ってない。フックなど知らない。ボディブローも知らない)を打ち込むが、悉く阻まれて、こちらだけがゼーゼーハーハーと肩で息をする羽目になる。“一人相撲“なのだ。彼は学生なので、決してプロではないが、専門家とトーシロの余りの技術の差にしょんぼりとする。

秋の体育祭。ボクシングのトーナメントがあり、受講生は全員参加だという。面映ゆいが、体重測定などをしてみたり……。当時は55キロあるかないほど。バンタム級だという。
よくデビュー仕立ては“三回戦ボーイ“と言われるが、このトーナメントではそれ以下の二回戦のみ。校舎の屋上が試合場。ロープも張られて、ゴングとか時計も用意されている。そしてリングの周りには少なくはない観客……とは言っても学生たちだが……が取り巻いている。

最初の相手は、顔面蒼白で緊張していた。おじぃちゃん先生から教わったジャブでマッチに臨む。何回かのファイトの後、彼の鼻から鼻血が出始める。タオルがリングに投げ入れられた。ドクターストップだという。“へ、こんなで?““ぽよんぽよんのグローブだぜ“と思う間もなく、レフリーがボクの右手を高く上げる。その間、2分ほど。
二戦目も三戦目も同様にドクター・ストップでTKO(テクニカルノックアウト)だ。ただ、こちらの気持ちがだんだん変化してくる。ジャブが相手の顔面に入る。正確にいえば鼻に入る。鼻が赤くなる。“もう少しだ“と思った後にに2、3発で鼻血が出る。そこを構わずジャブを畳み込むと、鼻血が飛び散る。「黒い愉悦」ってヤツだ。そして、白いタオルが投げこまれて終わる。“もうちょっと楽しみたかったのに……“と微かだが確かには思った。こういう感覚ってプロのボクサーにも絶対あるよね。
今考えて不思議なんだが、体育でボクシングをやっていても、テレビ中継のプロ・ボクシングには全く興味はないし、観たこともなかった。

いよいよ、決勝の4戦目のファイナルになった。相手はいかにもカッコつけでプロボクサーのような体の動きをして“俺ってデキルぜ“というデモンストレーションをしてくる。プロの試合をよく見ているのかもしれないし、近所のジムに通っているのかも知れない。こちらにはフットワークと左のジャブの「馬鹿のひとつ覚え」しかない。
ゴングが鳴る。声援が飛ぶ。ただし、相手にだ。二、三回の小手調べ的なジャブの後、彼がウエービング(足はそのままで、状態を左右、後にそらす)で背を後ろに反らしたの乗じて、ステップを詰め、ほとんど真下に向かって顔面へのジャブを打ち込む。連続で5、6発はお見舞いした。彼は完全に逆上して、野獣のような唸り声をあげ、アッパーカットでやってくる。これが空振りになったときにはガードがガラ空きになる。そこを連続でまた5発ほど畳み込む。“もう鼻血が出てくる頃だ“と思いながら。獣を狩りに行き、追い詰めてゆく邪悪な愉悦だ。
見ると、顔面が血で染まっている。タオルが投げ入れられたが、そのタオルを彼はリング外に放り投げる。殴られただけでは承知できない。もっと戦わせろっていうサインだ。ゴングが連打され、レフリーが止める。その間、1分半くらい。
信じられないことだが、4戦ともTKOだ。みんな3分以内で始末した。

思いがけずにチャンピオンベルトが用意されていて、それを腰に巻いてリング中央で両手を掴まれて高々と挙げられた。観客が拍手しているが、前々から気になっていた可愛い娘も拍手しているのが目の端に見えて、それが嬉しかった。(でも、それだけのことで、どう発展することもなかったことを、蛇に足のように付け加えておく。)

それと、リング脇の例の“おじぃちゃん先生“がこちらを見て“うんうん“と頷いてくれたのも嬉しかった。彼の教えを愚直に守った弟子だったからね。「チャンプ」になったのは私の人生で後にも先にもこの一回だけ。ひとえに彼のお陰だ。

「相手の反応を様子見をする」などの意味で「ジャブを出す」っていう。本気で殴りに行っていないジャブ。そのジャブだけでチャンピオン・ベルトを腰に巻くというのも、“めでたさも中くらいなりおらが春“というむずかゆさはありつつも……、ま、いいか。

このことで、つくづく感じたことはスポーツとか芸事というのは基本が誠に大切だということだ。私の到達できたことってボクシングの中の1%にも満たないのだろう。でも、結果はミラクルであった。
以来、ボクシングをやったことはないし、試合も観ない。ボクシング・グローブさえ嵌めたこともない。(第一、持っていたことがないし……)


閑話休題

WBCバンタム級チャンピオンで長谷川穂積 というボクサがーいる。ファイタータイプではなく芸術的なアウトボクシングをやる。すでに妻子がいた彼が初めてWBCのタイトルホルダーになったとき新聞から取材を受け、それに返したのコメントが……

「チャンプ……チャンピオンってなんやろ?自分より強いヤツにまだ会ってないだけ……」

こんなコメントが言えるがボクサーがいるのか?!彼はその後、強いと評判のボクサーをわざわざ選び(ときにはファイトマネーを彼自身が拠出したという噂もある)、そして10度の防衛に成功し5年間世界王座を守り続けた。
彼が本当の「チャンプ」。

(完)