オリンピック雑感


「リオ・オリンピック」をさっぱり観ない。余儀なくニュースで取り上げるので、“ああ、そうか“という程度のことで終始しているが、もう中盤に差し掛かってきているんだよね。

1996年の「アトランタ・オリンピック」をアメリカで観ていた。これがまるで面白くない。
アメリカはスポーツの大地である。Sportsというのは英語じゃなくてアメリカ語なんだよねって思うくらいだ。この広大で多様性に富む国土は様々なスポーツが可能だし、その設備もリッチだ。さらに加えて、新たなスポーツを次々と“発明“してきた。(バスケットボール、アメリカン・フットボール、サーフィン、カヌー、ハングライダー、スケートボード……などなど枚挙にいとまがない。)

アメリカに存在する駐車場の総面積は概算でプエルトリコに匹敵する」という統計があったが、同じく三分の一くらいはバスケット・コートの総面積になるじゃないの?って思う。屋外駐車場の敷地の中には必ずと言っていいほどバスケットが設えられている。

話を戻して、その「アトランタ・オリンピック」。

日本人にはあまり馴染みがない種目でルールも知悉していない競技も含めて“くまなく“アメリカ人の選手が出場している。それらを丹念にテレビカメラは追いかけるのだが、視聴している日本人のこちらとしてはinvolveなんかさっぱりできない。
当たり前だ。オリンピック視聴というのは、オリンピック憲章の底流に流れる相互理解の世界市民なんかじゃなく、偏狭なナショナリズム国家主義)の切っ先を改めて研磨して鋭くさせるための装置じゃないのかって思うくらいに、極めて“国粋的“心持ちで没入するものだ。

今やっている「リオ・オリンピック」も「日本選手」が金だ、やれ銅だ、でニュースにされる。その他の悲痛な顔の選手はほんの申し訳程度に触れる。(頑張って頑張って、それでも4位とか8位になった選手にも賞賛とか顕彰があってもいいのじゃないかとは思う。「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」とか能書きこいていたんじゃね?)

つまり、同じこの“大運動会“を世界で等しく観ているようでも、それぞれの国の人々はそれぞれのフィルターで掬い上げてきたものを観ていて、それを「オリンピック」と見做しているだけなんだ。

「オリンピック憲章」の6章目には……
「オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある」
……ってかっこよく謳っているが、画に描いた餅なんだよ。一番自己撞着を起こしているのは「難民選手団」だと思う。

オリンピックはずいぶん長いこと「平和でより良い世界を作ることに貢献」してきたんじゃないの?だが、お題目だけで未だになんの力にもなっていないってことだよね。「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」という言葉のなんと虚しいことか。四年に一度オリンピックを開いたところで、相も変わらず戦争は終わらないし、テロは続き、難民はとめどもなく流れ出てくる。

さらにさらに。
古代オリンピクを復活させたクーベルタンの精神とはウラハラのオリンピック組織委員会のマフィア化、巨費化、権利ビジネス化、果ては、アスリートそのものへ国家ぐるみでのパトロン化(ステート・アマ……まあこれはプロの参加許容で薄まったけど……)、 ドーピング問題、年齢詐称、国籍移動……。まるで、詐欺詐称、ごまかし、賄賂、イカサマなどなど“悪のデパート“状態。贅肉ダブダブ、ラードどろどろで賞味期限はとっくに切れている。クーベルタンの精神などどこを探してもカケラも微塵さえもない。虫眼鏡を使っても、ない。

これらバックヤードの薄汚い話は自然と漏れ伝わってくるわけで、一般の人々にもシラケを蔓延させている。

かてて加えて、友人がボソッと呟いた極めて日本的なことが一番しょんぼりと項垂れるかもしれない。

「このなかから、また国会議員が出てきたりするんだろうな。小脳だけ発達したバカ議員がね……」

やるせないねぇ。はぁ〜……。

(完)

※これはFacebookのタイムラインの8月9日の「松本薫」と8月10日の「アトランタ・オリンピック」を纏めて加筆編集したものです。