チャンプ

叔父の影響もあったのだろう。(七段だったか……を持っていた。)高校時代は柔道をやっていたが、二段をとったところで、受験勉強に入って止めた。

大学に入り、体育の時間に何かを取らなきゃならなかった。オサレなテニスなんて思ったが、貧乏学生とすれば、用具、コスチュームにカネが掛かるのが、痛い。却下。
柔道着なら汗臭くとも、高校時代のものがあるぞとエントリーしたが、抽選に漏れた。さあ〜てと、と見渡してみたら、ボクシングが定員に満たずで、アキがある。単位のこともあるので、渋々そこに潜り込んだ。

講師は思案の外で、年寄りで、小柄で、優しい人柄であつた。彼だったから、ドロップアウトしないで、続けたのだと思う。

ボクシング・グローブとは言っても、スポンジがたっぷり入ったアマチュア用のもので、プロ用のモノと比較すると2倍もある。それをそれぞれの受講生が両手嵌めている風景は「のらくろ二等兵」(古い!)の集団のようで滑稽の二文字。


その“おじぃちゃん“から、足の運びと基本のキを習う。つまり、ジャブ。ストレートでもなければアッパーカットでもない。左から繰り出すジャブ。相手もジャブ。そのジャブを右のグローブで右か左に流して、それに交差するように左のジャブを打ち込む……というもの。それをステップと連動させながら体育の授業のある週一回、倦まず巧まず実直に反復練習をする。来る日も来る日もこれだけ。

夏休みが明けてからは、ボクシング部員のアシスタントとのスパーリングが始まる。こちらと大して年齢が変わらぬ彼は、ただただガードだけで一向に攻撃はしてこない。カマキリのように両肘を掲げて、それで顔面と腹部のすべてをガードする。それに苛立ち、闇雲にジャブ(これしか習ってない。フックなど知らない。ボディブローも知らない)を打ち込むが、悉く阻まれて、こちらだけがゼーゼーハーハーと肩で息をする羽目になる。“一人相撲“なのだ。彼は学生なので、決してプロではないが、専門家とトーシロの余りの技術の差にしょんぼりとする。

秋の体育祭。ボクシングのトーナメントがあり、受講生は全員参加だという。面映ゆいが、体重測定などをしてみたり……。当時は55キロあるかないほど。バンタム級だという。
よくデビュー仕立ては“三回戦ボーイ“と言われるが、このトーナメントではそれ以下の二回戦のみ。校舎の屋上が試合場。ロープも張られて、ゴングとか時計も用意されている。そしてリングの周りには少なくはない観客……とは言っても学生たちだが……が取り巻いている。

最初の相手は、顔面蒼白で緊張していた。おじぃちゃん先生から教わったジャブでマッチに臨む。何回かのファイトの後、彼の鼻から鼻血が出始める。タオルがリングに投げ入れられた。ドクターストップだという。“へ、こんなで?““ぽよんぽよんのグローブだぜ“と思う間もなく、レフリーがボクの右手を高く上げる。その間、2分ほど。
二戦目も三戦目も同様にドクター・ストップでTKO(テクニカルノックアウト)だ。ただ、こちらの気持ちがだんだん変化してくる。ジャブが相手の顔面に入る。正確にいえば鼻に入る。鼻が赤くなる。“もう少しだ“と思った後にに2、3発で鼻血が出る。そこを構わずジャブを畳み込むと、鼻血が飛び散る。「黒い愉悦」ってヤツだ。そして、白いタオルが投げこまれて終わる。“もうちょっと楽しみたかったのに……“と微かだが確かには思った。こういう感覚ってプロのボクサーにも絶対あるよね。
今考えて不思議なんだが、体育でボクシングをやっていても、テレビ中継のプロ・ボクシングには全く興味はないし、観たこともなかった。

いよいよ、決勝の4戦目のファイナルになった。相手はいかにもカッコつけでプロボクサーのような体の動きをして“俺ってデキルぜ“というデモンストレーションをしてくる。プロの試合をよく見ているのかもしれないし、近所のジムに通っているのかも知れない。こちらにはフットワークと左のジャブの「馬鹿のひとつ覚え」しかない。
ゴングが鳴る。声援が飛ぶ。ただし、相手にだ。二、三回の小手調べ的なジャブの後、彼がウエービング(足はそのままで、状態を左右、後にそらす)で背を後ろに反らしたの乗じて、ステップを詰め、ほとんど真下に向かって顔面へのジャブを打ち込む。連続で5、6発はお見舞いした。彼は完全に逆上して、野獣のような唸り声をあげ、アッパーカットでやってくる。これが空振りになったときにはガードがガラ空きになる。そこを連続でまた5発ほど畳み込む。“もう鼻血が出てくる頃だ“と思いながら。獣を狩りに行き、追い詰めてゆく邪悪な愉悦だ。
見ると、顔面が血で染まっている。タオルが投げ入れられたが、そのタオルを彼はリング外に放り投げる。殴られただけでは承知できない。もっと戦わせろっていうサインだ。ゴングが連打され、レフリーが止める。その間、1分半くらい。
信じられないことだが、4戦ともTKOだ。みんな3分以内で始末した。

思いがけずにチャンピオンベルトが用意されていて、それを腰に巻いてリング中央で両手を掴まれて高々と挙げられた。観客が拍手しているが、前々から気になっていた可愛い娘も拍手しているのが目の端に見えて、それが嬉しかった。(でも、それだけのことで、どう発展することもなかったことを、蛇に足のように付け加えておく。)

それと、リング脇の例の“おじぃちゃん先生“がこちらを見て“うんうん“と頷いてくれたのも嬉しかった。彼の教えを愚直に守った弟子だったからね。「チャンプ」になったのは私の人生で後にも先にもこの一回だけ。ひとえに彼のお陰だ。

「相手の反応を様子見をする」などの意味で「ジャブを出す」っていう。本気で殴りに行っていないジャブ。そのジャブだけでチャンピオン・ベルトを腰に巻くというのも、“めでたさも中くらいなりおらが春“というむずかゆさはありつつも……、ま、いいか。

このことで、つくづく感じたことはスポーツとか芸事というのは基本が誠に大切だということだ。私の到達できたことってボクシングの中の1%にも満たないのだろう。でも、結果はミラクルであった。
以来、ボクシングをやったことはないし、試合も観ない。ボクシング・グローブさえ嵌めたこともない。(第一、持っていたことがないし……)


閑話休題

WBCバンタム級チャンピオンで長谷川穂積 というボクサがーいる。ファイタータイプではなく芸術的なアウトボクシングをやる。すでに妻子がいた彼が初めてWBCのタイトルホルダーになったとき新聞から取材を受け、それに返したのコメントが……

「チャンプ……チャンピオンってなんやろ?自分より強いヤツにまだ会ってないだけ……」

こんなコメントが言えるがボクサーがいるのか?!彼はその後、強いと評判のボクサーをわざわざ選び(ときにはファイトマネーを彼自身が拠出したという噂もある)、そして10度の防衛に成功し5年間世界王座を守り続けた。
彼が本当の「チャンプ」。

(完)