『酒場 學校の日々』読書ノート

草野心平が当初は『火の車』というバーを持っていて、その次に新宿ゴールデン街に持ったのが『學校』という名の酒場だった。
草野心平を卒論のテーマにしたくらいの草野ファンの金井真紀さんが、強力な磁石に引きつけられるビール瓶の蓋のように、このゴールデン街に引き寄せられ、「水曜日だけのママ」という臨時雇い教師をやる羽目になってしまった。そしてそのことは、この酒場が2013年に閉店するまでの5年間続いた。
その間そこで起きたこと、聞いたこと、観察したことを纏めた本である。(イラストも彼女の手になるもの。)



私は下戸遺伝子の持ち主で、自分の人生の傍に酒があったことは皆無に近い。自分の意思で酒場に赴いたこともほとんどない。
ただ、「ゴールデン街」には、20代の頃、誰かに連れられて一度は行ったことがあるかもしれない。さりながら、特段の興趣が起きたということでもなかった。ただの通りすがりの者でしかない。

草野心平。名前だけは知ってはいたが、彼の詩をきちんと読んだことはなかった。

何れのアングルからも、この本の読者としては、私ははなはだ似つかわしくない者だと思う。

考現学」という言葉が「考古学」の古→現にして新造された言葉だと聞いた。ゴールデン街がまだまだこの先“昭和の遺跡“として生き残っていくのか覚束ないけど、この本が考古学をまぶした考現学になっていて、私を「酒場」とか「酒を飲むということ」の疑似体験に誘ってくれた。

信頼する人が金井真紀さんを「言葉のセンスがある人よ」といって紹介してくれた。ああ、彼女はこういうことを言っているんだろうなと思った箇所がいくつかあった。マークしてあるところから、抜書きをしてみる。


・ヒヨコが最初に出会ったものを親だと認識する刷込み現象とどこか似ていて、志水さんと私の友情は、おやどりとヒヨコのような不思議な味をしている。
・禮子さん曰く。「わたし、死んだら地獄がいいな。天国に行っても、知っている人誰もいないもん。心平さんも天国に行くはずないし」
・「真紀ちゃん、わたし、非暴力のためなら鉄砲玉にだってなるわ」
・ うっとり夜は更け、そして事件は起きた
・ 「母親が死んだらこの世が終わるんじゃないかと思ったけど、亡くなった翌日も世の中は変わらずにあった」
・ 「お互いの人生の一番輝いていた時期を知っているから、どうしても厳しくできないの。それがあたしの意気地のないところなんだけど」
・ ……そして、この瞬間を味あうためにぜんぶがあったんだということが、なんとなくわかった。
・ 禮子さんの留守を預かった二か月のあいだに知ってしまった滋味が、わたしの襟首をつかんで離さないのだ。
・ ……すると薄暗くて狭い學校のなかに、心平さんをはじめとする「昔の男ども」があわあわと姿をあらわすのだった。
・ 落第つづけの優等生
・ あれはもう独特の時代なのね。たぶん……戦争に負けたということ……口には出さないけど、男たちの心のなかにはずっとそれがあったんじゃないかな。戦争が終わってホッとしたというものもあるけど、やっぱり日本で生まれ育った男がね、たとえ共産党だろうとなんだろうと、戦争で負けたということについては……何か心のなかに屈折するものを持っていたのでしょうね。……
辻まことを火葬したとき、心平さんと串田孫一は遺骨を食べた……らしい。
・ 誰かがくれた鮭一匹が、たった一つの装飾品だったな。柱にしばっておいて、片方からはさみで削って食べていたんだ。前を食い、裏返して後ろを食い、しっぽから骨、最後に頭と、全部食べた。歯は丈夫だったね。だから、鮭の骨を食うなんて、わけなかった。鮭の歯と俺の歯とどっちが堅い、何て言いながら何も残さずに全部食べてしまうわけだ。
草野心平:『凸凹の道』)
・ 「君、徳利は『とくり』と言いなさい。『どくり』と言ってだれが喜ぶ。言った人は喜ばない。聞いた人も喜ばない。徳利自身も喜ばない。それを君はどうして言うのだ」
・ はるか彼方のオホーツク
・お祭りはずっと続かないからお祭りなのだ。

昨日生まれたタコの子が
弾に当たって名誉の戦死
タコの遺骨は
いつ帰る
骨がないから帰れない
タコの母さん悲しかろ


相当に端折ったが、こんなところかな……。


赤坂の花屋のティールームで金井さんと二度目のデート。
会った瞬間から溢れて滴り落ちるような愛嬌。思わずその滴りを両手でドンブリを作り、受け止めたくらいだ。
“人生の達人“にはこのタイプが多い。愛嬌はIQに通じる。
「あれはなぜ書いたの?」
という極めてプリミティブな質問に、金井さんは……
「この世から消えてしまった『酒場・學校』の墓碑を書きたかった……」

それだけではないと思う。
金井さんにとってあの5年はベラージュ(le bel age:美しき時:青春)であったのだと思う。
まだその魔力に襟首を掴まれているように見えた。

(完)

※※ 金井真紀さんのウエブ・マガジン「うずまき堂マガジン」

http://uzumakido.com/