ミャンマー点描


ミャンマーヤンゴンという都市にビジネスで行ってきた。ここではビジネス以外の見たこと聞いたことを書いてみみよう。一週間ほどの滞在のあと2月28日に帰国してFacebookにちょこちょこ書いたことを土台にして纏めるカタチをとっている。
ある程度の年配の人には、「ビルマのラングーン」って言った方が親しみがあるだろう。日本も「大和」という時代を経て全国統一的な「日本」になったのは精々この100年ちょっとのことだから……。

今回のミャンマーミャンマー人から日本人に帰化した宮崎正夢さんという人の案内で歩いた。なにせ、英語はホテルくらいでしか通じず、ミヤンマー語は喋れず、ミヤンマー文字は読めず、“ヘレン・ケラー状態”なので、われわれがミャンマー名を略して「ソーさん」と呼んでいた彼がいなきゃ、何にも出来なかった事は間違いない。
(ホテルのファサードエスコートの民族衣装の娘たち。左端が「ソーさん」)


❏パゴダ

ミャンマーヤンゴンに来れば、やはり「シュエコダゴォン・パヤー」に行かなければなるまい。英語ではPagoda。ヤンゴンがダゴォンと呼ばれていた紀元前から発するらしい。ソーさんがわれわれ一行と家の子郎党までもバンに乗せて向かう。パコダの入り口で履物を脱ぎ……つまり裸足になる。アメリカの飛行機に乗る際のボディチェックでも裸足にならされて、なんだかイヤ〜んな感じになるのだが、ここでの裸足は“ブッダのもとでは皆平等”という感じで清々しい。日本の会議も全員裸足でやると和やかに進むのではないかと思う。
先般ここを訪問したオバマアメリカ大統領も裸足になり参拝したということだ。何人もついているボディガードも渋々裸足になった。なんたって、1983年に北朝鮮工作員による韓国大統領一行を狙い21名が爆死……大統領自身は無事だったが……という「ラングーン(ヤンゴンの以前の名前)事件」が起きた所なればこそ、かれらプロとすれば随分と緊張していたはずだから。



とにかく、もの凄いのだ。金箔を貼った99mのパコダが60余り。それらのパゴダの塔のてっぺんにはダイヤとかルビーが配されている。みんな寄進によるものだという。それら全部ひっくるめて“仏陀のテーマパーク”という状態。パゴダのなかには数え切れない仏像、パコダとパゴダの間にもこれでもかこれでもかというくらいの仏像が鎮座している。“パーク”はゆったりとした石畳になっており、ミヤンマー人にとって一生に一度は行ってみたい来てみたいと願うところなので、そういう善男善女が弁当を持ってここで一日過ごすのだという。

すぐ隣のインド生まれの仏教とか仏像はリアルの上にきらきら極彩色で、日本の仏教・仏像はつまりは相当に異端なんだってここでは解る。
仏教の流れは南伝仏教と北伝仏教と言われたり、それにややシンクロして小乗仏教大乗仏教にジャンル分けをしたりする。だがそんなことの前に、白く化粧して唇は赤く、時には目の隈取が青く、金色の衣をまとっている仏像を見ると、日本の古色蒼然たる鉄錆色の世界観とはまったく異なる。勿論、生まれた地が日本より圧倒的に近いわけだから、こちらが正統であることには疑いがない。それどころか、インドの仏教はいろいろな理由で廃れてしまい無きに等しい。だとすればこの国の仏教が本家なのかも知れない。

境内(って言葉はちょっと違和感があるが…)には、金箔を売っていて、人々はこれを求め、金箔貼り付け用の仏像にペタペタと貼っている。仏像は金箔でボテボテですっかり“金満家”に成り果てている。
もっとも記録によれば、奈良の大仏も建立当時は金色に燦然と輝いていたという。今はただ剥げ落ちて煤けただけなんだということだ。

ソーさんがいきなり「生まれたのは何曜日ですか?」と質問してきた。はあ〜?ミヤンマー伝統歴は「八曜日」になっている。(水曜日が午前と午後になる)曜日ごとに守護仏があり、その祠にお参りをするのが作法になっている。ボクは木曜日であった。……ここでもお賽銭を喜捨する。“おや、なかなかのマーケティングねェ”と感心した。
このパゴダはミャンマーの商人がインドで仏陀に会い、頭髪を8本貰い、それを奉納する仏塔ということで始まったとされている。この国で「八」というのは縁起がいい数字なんだろう。日本でもいい数字とされているが……。

子どもや若い娘たちまでが嬉々として参拝している信仰心の篤さを日本の坊主どもに見せてやりたいものだと思う。心の底から羨ましいだろうな……。

❏寝仏

上記とは異なる所にある「チャウッターヂー・パヤー」という全長70メートルの寝仏。誰かに似ていると思ったら、美輪明宏だった。まあ、どう見てもオカマ…だ。










❏托鉢

パゴダにも大勢の僧がいるのだが、普通のミヤンマー人が微笑みを絶やさないの比較して、誠に無愛想。器を突き出して、こちらの目を覗きこんでいるだけ。傲岸不遜。幾ばくかのお金を入れても、何の反応もなくクルリと背を向けるだけ。そうする行為を「喜捨」というくらいだから、この事自体を喜ぶのは当方なのだということだろう。
小坊主も多い。青空食堂といわずファーストフードの店といわず、彼らは集団でやってくる。彼らの態度物腰もほぼ一緒。まあ、修行の一環で卑屈になるなと教えられているんだろう。

托鉢ではないが、乞食(もともとは仏教の托鉢を指していた:こつじき)……ものもらいも多い。この国のカフェといっていい青空食堂などにいるとやってくる。“それってルール違反じゃないの?”といいたくなる乳飲み子を抱えた女が飯を食っている我々の側に立っている。20チャット(日本円で2円くらい)を上げる。やはり、黙って去る。
パコダにあった金箔でボテボテになった仏像と目の前にいる乞食……アジア的不条理というか混沌といおうか?う〜む。

ビルマの竪琴

日本から遠く離れ酷く暑い国にまで、旧日本軍の兵隊さんは“遥けくも来つるものかな”と惻々と思う。“本当に無残な想いをしたよね”と話を聞いてあげたい。そんな感情はサイパンとかグアムでも起き上がり、シンガポールや台湾、韓国へ行った時にも湧き上がった。
ビルマの竪琴」。児童書で有名になり、映画にも二度なっている水島上等兵の話である。しかしほとんどのミャンマー人はこれを知らないし、今後も知ることにもならないだろう。つまり、僧侶が音曲を奏でることは仏教の戒律から言えばあり得べからざることというワケだ。だから、コンテンツになりようがない。
ホテルのロビーでその竪琴を演奏していた。われわれを認めて急に日本の童謡にしてくれた。






ヤンゴン交通警察

ここでの移動はすべてソーさんのバンでする。とにかくヤンゴントラフィックは相当にデンジャラスだ。急激な車の増加に道路のシステムが追いついていないことと、どういう訳が横断歩道がほとんどなく、人々が道路をJウオークするのでうかうかしてられない。ドライバーはソーさんの右腕で、カンフーの「ブルース・リー」によく似たハンサムであった。彼の運転は見事である。
彼の出で立ち。上は白いカッターシャツ、腰から下は「ロンジ」と呼ばれる……まあ、腰巻。……とはいっても筒状になっているのでスカートに近いのかな?これを腰の部分で絞るように結ぶ。そして、足にはゴム草履。これでこの国では大統領にだって会える立派な正装らしい。
勿論、「ロンジ」は男女ともに履くが、若い女性のものは細身で足元まで長く、上着も上手くコーディネーションするのでチャイナ・ドレスのような感じになる。
さらに、下着は身に付けるのか?と尋ねると、伝統的には身につけなかったのだが、最近では半数は下着をつけるらしい。(ブルース・リー自身はノーパンだと言っていた)日本でも昔は和服の下に下着をつけなかったのと同じことだ。


(←ロンジ姿の男性たち)

工場に向かう途中。腰に「ロンジ」、上には白いランニングシャツ、その露出した肌から見えるのは一面のクリカラモンモンの刺青の男がセコい50CCくらいのバイクで急にわれわれのバンに横付けしてきた。なんだなんだ!……聞けば、ブルース・リーの兄貴だという。それも交通警官だというじゃないか?!いくら南国といっても警官にしちゃ自由放埒に過ぎるだろう……。その上、刺青だよ。暴力団排除条例はこの国にないのか!
ソーさんに「下着はつけているか?」と訊いて貰った。NOだという。フリチン!!

纏めるよ。ランニングシャツで刺青ギンギラギンで50CCのバイクに跨り、その腰巻の中はフリチンで風が入って気持がいいのよって言っているのが警官だよ、この南の国では……。

❏タナカ

この国の子どもや若い女性までもが顔に白っぽいものを塗っている。「タナカ」というミカン科の低木を擦り下ろし水に溶かしたもの。それを日焼け止め・清涼剤として顔に塗るわけだ。若い女性は多少デザインっぽくオシャレに塗ってはいるが……。つまりは、日本の女性が夜やるパックを昼日中にやっているってことだよね。
まあいいさ、日本だって縄文の頃は女だって顔にすごい刺青していたんだから。



❏食

この国へ着いてからずっと、何を食べてもおいしい。これは多分日本人をよく分かっているソーさんのアレンジによるところも大だとは思う。だが、地政的に、中国、タイ、インドの影響を受け、それぞれの料理が世界的にも定評があり、この国ではそれらがミックスアップされている感じがする。まずくなりようがないのかも知れない。唯一の懸念は英国の植民地になった歴史があることだ。だが、幸いな事に彼らイギリス人の貧しい舌の影響はまったく排除している。

ヤンゴンのブランチ。ミャンマーのカフェと呼んで差し支えはない。まあ、青空食堂。こちらでよく食する麺を頂く。コメの粉で作った幅広のビーフン……スープも絶品で素晴らしい。「モヒンガー」という不思議な名前だ。

その青空天井の食堂の傍に子供がチャンバラに使うような棒切れが大きなバケツに差してある。何かと問うと、サトウキビだという。発注。
灯油で回る焼玉エンジンらしいのががけたたましい大音量で回り、キビが2本3本と挟み込まれて、“本絞り”の樹液がでてくる。……ここでは日常的に停電があるので、電気のモーターはアブないのでオイルにしているんだろう。写真の手前と奥の青白い液体がそれ。凄く甘い。ただ最後に青臭いエグ味が“ざわわざわわ”と残る。













❏多種民族国家

「この国には150もの種族がいるんですよ」
とソーさんがなんかの話のときに差し挟んだ。
「うわ〜150!じゃ、言葉も150種類ってこと?」
「そうです」
と事もなげに答える。
ある食事の席で……
「私はビルマ族とカイン族の混血です」
と自己紹介する人がいて驚いた。日本で“熊本と秋田のハーフです”って言わないだろう?

ミャンマーの正式国名は「ミャンマー連邦政府」。やはり「連邦」なんだよね。5つの国と国境を接して、国内には様々な少数民族を含めて150の部族(民族)。国を束ねていこうという政治家とすれば、頭を悩ますところだろうな……。
それぞれの民族がそれぞれの民族衣装を持っていて美しい。言語とか文化もそうだろう。出来れば、そういう民族のショウケース的な国家になって行ってくれればいいんだけどなァと無責任な旅行者は思う。

「チャンネル5」という放送局で打ち合わせしていると、担当のクリエイティブ・ディレクターが
「『ミス・ミャンマー』のリハーサルがあるんだけど、見に行くかい?」
と誘ってくれた。彼が永年暖めていた企画で、軍政権下ではOKが出ず、今回初めて実現の運びになったと嬉しそうだった。ミスの彼女達が身に着けているのが「ロンジ」である。彼女たちはそれぞれの地域代表だが、それは取りも直さず部族代表ということにもなる。













❏スーチーさん

ビルマをイギリスから独立に導いたアウンサン将軍の名を冠したボージョアウンサン・マーケットに行った。アウンサンは日本に身を隠していたり、日本軍と共闘したり、抗日になったり、イギリス軍と手を結んだりをさまざまにしたが、思いは「独立」という一点だった。そして、実際の独立を見る一年前に暗殺されてしまった。この「建国の父」とも言われている人の娘がスーチーさんだ。
ミャンマーに行く前は、スーチーさんは熱狂的国民的人気があるんだろうなって思っていたが、現地での感触はそうでもなかった。
なぜ?夫がイギリス人だということ。……父君が英国から独立に一生を捧げた国父なのに何なの?彼女の子供たちも英国住まいだし……という感情。さらに、この国の法律で彼女が選挙で票を集めたとしても、外国籍の配偶者を持っている限り、大統領にはなれない。
2つ目はノーベル賞で物凄い金持ちになってしまった。……賞金が日本の感覚の10倍以上にはなる。一億円だとしても十億円の価値になる。

そんなことを考えながら、ボクは細々と5ドルばかりのスー・チーさんのTシャツを買った。



❏チャット

ミャンマーの貨幣の単位。日本円との価値でいえばほぼ十分の一。一万円を両替してもらったら、横にポンと立つほどの札束になって戻ってきて、輪ゴムで束ねてあるそれを手にすっかり狼狽してしまった。そして、ついぞコインを見かけないので質すと、硬貨はないのだという。もし硬貨を発行すると、それを集めて溶かして原材料にしちゃうヤツが続出するからだという。つまり、1チャット(0.1円相当)の硬貨に20 チャット掛かるとすれば、みんなそれを溶かす。
今度やっと10,000チャットを発行するらしい。それでも、1,000円だしね。







●19万年前ころ、現生人類ホモ・サピーエンスがアフリカで誕生し、12万年前ころ氷河期で乾燥したアフリカを出て沿岸部を辿りながら南インドまで来てそこでしばらく滞留していた。しかし7万年前ころにスマトラのトバ火山の大噴火で旱魃に見舞われ、続く2回目の氷河期を迎えた。北に進みコーカサス山脈を越えヨーロッパに行くもの、南に下ってオストラリア方面に行くもの(海面が100メートル近く減っていたので徒歩で行けた……)、北のチベット、モンゴル方面に向かいさらに北のマンモスが棲息しいていた「マンモス・ステップ」に行くもの、さらにアジアの沿岸を中国を経て、さらにベーリング海峡(その頃はベリンギア大陸であったが…)を渡り北アメリカそして南アメリカと達した。
この第四のグループの一部がロシア(樺太)と陸続きであった当時の日本列島に渡ってきたわけだ。(これが多分、縄文人?)つまり、南インドから動けば必ずミャンマーを通らざるを得ない。そしてこの辺りが“原モンゴロイド”のふるさととされている。われわれ日本人からすれば、かれらは先輩格にあたることを凄く感じた。親戚のおじさん、知人の娘さんなどの面影をそこかしこに見るわけなんだ。

ナポリを見て死ね」という言葉があるが、「パゴダを見て死ね」と言ってもいいだろうと思う。ほんのちょっとの期間だが、ヤンゴンで濃密な経験を楽しんだ。

(完)