共感覚そしてアルチュール・ランボオ

レトリックのひとつに「共感覚法」というのがある。触覚、味覚、臭覚、視覚、聴覚の五感の間で表現をやりとりする方法だ。慣用句として「黄色い歓声」「深い味」「暖かい色」などを違和感なく使っている。コピーライターもこれが好物で「ラングドックのワインは新鮮で明るい味がします」などと多少の違和感を冒険してくる。

これらとは一線を画した「共感覚」(synesthesia:シナスタジア)というテクニカル・タームがある。ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象(クオリア)をいう。
この「共感覚」の中で一番発生率が高いのが、音楽や音を聞いて色を感じる「色聴」(絶対音感を持つ人の中には、「色聴」の人がいる割合が高いとされている)。 この反対は「音視」。これは色を見ると形が視え、音が聴こえるもの。

どうやら、誰でも赤ちゃんのころにはこの五感が未分化で相互干渉しているらしいのだが、成人するに従い主観的な心の世界がしかるべき脳の部位に連結される。だが、そうならないママで成人してしまうケースもあるのだという。

私にはほんの二、三の些細な例を除けば、この「共感覚」はほとんどない。
だが、レトリックを講義してこの「共感覚法」に関連して、シナスタジアの「共感覚」を持っている人はいるか?と尋ねると、1人とか2人が挙手してくる。母数は30〜50人である。そのほとんどが上記した「色聴」である。「音視」というのもいた。

ある女子学生とメールアドレスの話になったとき、

「そろそろアドレス変えたいのですけど、私のアドレスのアルファベットの並び、色が綺麗でしょ?だからもったいないんですよ。sは紫で、tは黄色で……」

こういうとき、“残念な子だなァ”と思ってはいけない。やはり「色聴」の変化球で“書記素(文字)から色を感じる共感覚”なのだが、彼女は他の人も自分と同じ感覚を持っているとまったく疑っていないだけなのだ。

共感覚」を持っていることは多分アドバンテージとか特質にはなっても、それほど不具合とか害になるという知覚現象ではないので、きっちりと研究されてこなかったウラミはある。だが、確実に“その人たち”は世間に存在している。

詩人、作家などクリエイティブなことに従事している人の脳の特徴は、ちゃんとした大人なら当たり前の「編集する」という性質に逆行するところだという。つまり、ごちゃごちゃに“散らかって”いるものだ。何ひとつ捨てたがらないので整理もされていない。セレンディピティの力を信じている彼らは物事の価値を早々に決めてしまうことに抵抗する。(いわゆる“クリエイティブ脳”)
……だとすれば、「共感覚」というのは “クリエイティブ脳”をもう一つ余計な次元から“散らかす”ことになるのだろうと思う。

共感覚」の持ち主とされているクリエイティブなアーチストは結構多い。レオナルド・ダ・ビンチ、宮沢賢治……その他ピアニスト、音楽家、作曲家、画家などなどにも……。
でも、最も特筆されるのは、ランボオではないかと思う。

アルチュール・ランボオ。17歳でヴェルレーヌに出会い、彼の紹介で詩人デビュー。

(つまり、ヴェルレーヌとはホモセクシャル関係だったのだといわれている。詩作『盗まれた心』はヴェルレーヌじゃない誰かにそれこそ“おカマを掘られた”ことを詩にしたとされている。また、後年のアフリカでは彼自身が“お稚児”を愛でていたらしい……)

ランボオが15歳から書きめていたもののなかに『母音』という作品がある。のちほどランボオの代表作の一つになった。

『母音』


A (アー)は黒、E (ウー)は白、I (イー)は赤、U(ユー) は緑、O (オー)は青、母音たちよ、おれはいつかお前たちの秘められた誕生を語ろう、


A、無残な悪臭のまわりを唸り飛ぶ
きらめき光る蠅どもの毛むくじゃらの黒いコルセット


陰った入江。E、靄と天幕の白々とした無垢、
誇らかな氷河の槍、白い王たち、繖形花(さんけいか)のおののき。


I、緋の衣、吐かれた血、怒りに狂った、
あるいは悔悛の思いに酔った美しい唇の笑い。


U、循環期、緑の海の神々しいゆらぎ、
家畜の散らばる放牧場の平和、
学究の広い額に錬金の術が刻む小皺の平和


O、甲高い奇妙な響きに満ちた至高の喇叭、
諸世界と天使たちがよぎる沈黙、


― おおオメガ、あの人の眼の紫の光線!


(訳:粟津則雄 )

このソネット(14行詩)は他に中原中也小林秀雄堀口大学が訳しているが日本語自体が古色蒼然とした美文でなおのこと難解にして難渋である。この粟津さんのものが一番新しく親しみ易いが、それでも難解であることは引けを取らない。原文のフランス語がさぞや難解なのだろう。
われわれが僅かに明確に解る事はランボオは間違いなく「共感覚」の持ち主であったということだ。母音を色に変換し、そこから詩を展開して行っているが、「共感覚」を持っていない“常人”には衝撃である。
「Aは黒」と決めつけて、その黒の連想から邪悪な銀蝿に発展させていく。シュールに過ぎるのだ。

ランボオの詩をくまなく観賞したわけではない。だがこの『母音』のようにあからさまではなくとも、彼の詩には「共感覚」が至る所に補助線として引かれているという気がする。
世界中の詩人が動転し青ざめ震撼したランボオの詩作の泉の源には「共感覚」があったのはほぼ間違いないと思う。

それにしても、ランボオが詩作したのは15歳から19歳の5年間だけで、20歳以降は放浪の旅にでて以後詩作には戻っていない。ほんの通りすがりで詩作して他の詩人を劣等感の淵に突き落としておいて、どこぞにぷいと消えてしまう。だから、「恐るべき通行人」と称された。
その「通行人」は32歳のときにエチオピアに赴き武器商人になっている。だが、37歳のころ癌に冒されマルセイユに戻り死んだ。

コマーシャル:サントリーローヤル「ランボオ」の長沢岳夫さんのコピーがこの詩人の生涯を穿っている。

その詩人は底知れぬ渇きを抱えて放浪を繰り返した
限りない無邪気さから生まれた詩
世界中の詩人が青ざめたその頃
彼は砂漠の商人
詩なんかよりうまい酒をなどとおっしゃる
永遠の詩人ランボオ……
あんな男、ちょっといない


共感覚」まで持っているアーチストって、“ちぇ!ズルいなァ”って思う。五感がきっちり分化してしまっている通常人からすればそう思う。

でもね、天賦の運動神経を持ったアスリートに対して、平凡な運動神経しか持っていない者がどれほどの修練を重ねようとも決して勝てない。それと同じ事なのだと思えばいい。
神はもともと人に平等に才能を与えてはいない。
“散らかった脳”ではまともな社会生活もできないのだし……。ははは。

(完)