絶望のパスタ

最近ちょっと気に入らないことがある。「アーリオ・オリオ・鶏肉と菜の花」ってどうなの?
「アーリオ・オリオ・ペペロンチーノ」というメニューから来たんだろうけど、これは「ニンニク×オリーブ油×唐辛子」っていう意味のメニューだし、それが一塊の言葉じゃないの?

「サツマノカミ」が薩摩守忠度(サツマノカミタダノリ)という平家の貴族に由来して、無賃乗車(ただ乗り)を意味する古典的な隠語というかシャレなのに、“サツマノカミ・ただ酒“ではちょっとなあって思う。

いやいや、これは例が古すぎてダメだ。「薩摩守」なんて「肥後守」と同様に死語になっている。

まあ、とにかく「アーリオ・オリオ・ペペロンチーノ」っていうパスタは客には出さないシェフたちの“賄い飯“だ。客に出すのは日本だけだって聞いたことがある。
何も具が入っていないパスタ……食いしん坊のイタリア人は落胆のあまり、「絶望のパスタ」ってネーミングした。日本で言えば「素うどん」だね。もしくは“一杯のかけ蕎麦“だ。

で、冒頭のメニューは「鶏肉と菜の花のパスタ」って言ってくれれば腑に落ちる。(じゃないと、ニンニクとオリーブ油は使っているけど、唐辛子は入れてないって思っちゃう。)
ま、それにしても、目くじら立てるほどのことではない、だから“ちょっと気になること“と言った。


もともとパスタが好きだったんだなァってことに最近気づいた。この一年ほど自分でパスタを作るようになり、週に多いときには二、三度は食べることもあるが、飽きはこない。

「春、夏、秋、冬と僕はスパゲティーを茹でつづけた。それはまるで何かへの復讐のようでもあった。裏切った恋人から送られた古い恋文の束を暖炉の火の中に滑り込ませる孤独な女のように、僕はスパゲティを茹でつづけた。」

と、村上春樹が『スパゲティーの一年』のなかで書いている。

スパゲティーを茹でていると必ずこのフレーズが頭のなかをリフレインされるのにはちょっと閉口する。やれやれ、確かに春夏秋冬とスパゲティーを茹で続けて来た。ズッシリとした恋文の束を暖炉では燃やさないが……。

村上春樹がなぜ一年もスパゲティーを茹で続けたのかは知らないが、わが方には理由は確然とある。「男子厨房に入らず」と頑なにきたものだが、最近はそういう力関係がすっかり崩れた。(どちらさまでも、こういう経年劣化になっていると聞く……)家人からのやんわりとした脅迫がある。「作ってくれる?」と。そして作れるものがスパだけなんだ。

ただ好都合なことに、この“アーリオ・オリオ・ペペロンチーノ(ニンニク・オリーブ油・唐辛子)“の組み合わせは万能のソースでかつ融通無碍だ。この中に何をぶち込んでも失敗なくちゃんと成立させてしまう素晴らしい力がある。四季の花々も、毒蛇も、サボテンも、バーファローも、コヨーテも、ナマズも、イロコイ族も全てを豊かな胸にしっとりとかき抱く母なる大地のように……。


ゴスペルの女王と言われたマヘリア・ジャクソンが、

「ブルースは絶望の歌だが、ゴスペルは希望の歌だ」

と、言っている。

当方も精々「絶望のパスタ」ではなく「希望のパスタ」にしていこうじゃないか。

※「プッタネスカ」。なぜ「売春婦」という名前なのかよくは知らない。掘り起こせばなかなかのストーリーがあるんだろうという予感はする。本式にはアンチョビで作る。これはそれの代わりに安価な塩辛を投入。他、トマト、ツナ、オリーブ、白菜、長ネギ、エンドウ、オニオン・スライスのトッピング。もちろん、塩・胡椒。

(完)