『舟を編む』読書ノート

友人の推薦があったからだろう、通りがかりの本屋でマラソンランナーが給水場所でペットボトルの水をさらうようにこの本を買ってしまった。

舟を編む』とは随分と衒ったタイトルだなと思ったが、読み始めて間もなく判った。つまり「大渡海」という国語大辞典——言葉の大海原を漕ぎ行く小舟に喩えているーを出版するまでの悪戦苦闘物語。

登場人物は馬締光也、林香具矢、西岡、岸辺みどり、松本先生の5人がメインのキャスティングだが、ほぼまじめ(馬締)君のワンマン・ストーリー。いや、「大渡海」が本当の主役なのかもしれん。

作者の取材というか仕込みが丁寧で、リアリティが持つ迫力がある。どんどん背中を押されるように読まされてしまった。

作家は私とって始めての「三浦しをん」。
……「シオン」というのは「シオニズム」の語源で、もともとはイスラエルの古名じゃなかったのかな?彼女がシオニストかどうかは知らない。
とあれ、彼女のレトリックにほほう!と思うことがしばしば。
いくつかをピックアップしてみよう。


・ ポットの脳天をじゃこじゃこ押し、急須にお湯をつぎたす。
・ ……と骨折する勢いで首をかしげたくなる……
・ 「こりゃまた、壮絶にうだつが上がらなそうだな」
・ 「あいかわらず、目の覚めるような不細工だなあ」
・ 温泉のようにこんこんと湧く、苦い感情の源をたどると、なんとも情けない結論にたどり着く。

・「は?!」突如として霊界からの声が聞こえたと言わんばかりに、麗美が目を開く。
・ そしてなにも言わないまま、西岡の頭を胸に抱き寄せた。水面に落ちたきれいな花を救うように。
・ 馬締とちがい、西岡は必要ならば嘘を八百でも千でも並べ立てられる。
・ 冬の午後の淡く白い光が、キャンパスに差している。葉を落としたイチョウの枝が、空にひび割れを作っている。
・ 整理されるのを待つ膨大な言葉の気配が、夜の廊下ににじむようだ。
・ ・「あーうーあーうー」その声は低く間断なくつづいている。産気づいた虎でも飼っているのか?
・ 男は主任の威厳の片鱗もうかがわせず、机の上を手探りしている。
・ 岸辺が机に歩み寄ると、営業部長たちは二手にわかれて即座に道をあけた。海を割ったモーゼになった気分だ。
・ 松本先生は顔を上げ、美しい蝶をつかまえた少年のように微笑んだ。


日本ではそれほどレトリックが発達してこなかった。俳句・和歌のようなショートな定型詩では極端に字数が限られているので、どうしても隠喩などのレトリックが多用されるが、小説においてレトリックを使うのは“上質な書き手“とはみなされないという話を聞いたことがある。
だが、翻訳を数多くこなしてきた村上春樹の作品はその翻訳の作業の影響なんだろう、星の数ほどのレトリックで散りばめられている。彼がベストセラー作家になるにつれ、小説におけるレトリックは日本でも一般的なものになってきたように思う。
三浦しをんも相当にレトリックを寵愛しているように見える。

それはともかく、これを読み終わって辞書・辞典に対して深い愛情とリスペクトを払うようになった。
(完)