桜前線

桜前線関東平野の鳥羽口を通過して雪崩込んで来ているようだ。

一口にサクラと言っても日本には300種類くらいの桜があるらしい。でも、普通はサクラといえばほとんど例外なく、「ソメイヨシノ」のことを指している。だから桜前線とはいっても他の桜ではなくソメイヨシノの開花時期のことをいっている。「ソメイヨシノ」はエドヒガンとオオシマザクラの交配で生まれたサクラの園芸品種だ。駒込近くの染井村(現在では「染井墓地」がある辺り)の植木屋が一代雑種の《たった一本の木から挿し木(小枝を土に刺して発根させる)》によって増やして、当時のブランドであった「吉野桜」の名前をちゃっかりとイタダきにして江戸だけではなくついには全国にまで広めた。名前が素晴らしかっただけの理由じゃなく、花の姿自体の豪華絢爛さ故に日本人の心を虜にしてきた。まさしく園芸種桜の女王なのである。

そうなのだ。全国に夥しく分布している「ソメイヨシノ」も元を正せばたった一本の木から複製された「クローン」であるし、今や「クローン」から「クローン」を生産しているということだ。すべてが個体差がない“複製”というか“分身”だからこそ、温度などの開花の条件が整って来れば、東京中の「ソメイヨシノ」がどか〜ん!と一斉に咲く。明治神宮のも、市ヶ谷のお濠端のも、千鳥ヶ淵のも、上野の山のも、浅草・言問橋ソメイヨシノも……全部ひっくるめて一つの巨大な個体としての木であるといえる。すべての枝に丹念に花を咲かせるように、東京のいたるところにあるソメイヨシノを咲かせている。
これって相当に気持ち悪くはないかなァ〜?怖くはないかな?

園芸種桜と言った意味は、人間の手を借りないと生命を持続させられないということだ。簡単にいえば野生のソメイヨシノというのはあり得ない。あれほど豪華な花をつけながらサクランボ(実)はつけない。生殖機能はとうに失っている。無性生殖(クローン)としてコピーされていくだけなのだ。まるで去勢された猫のように媚びだけを売って50年ほどの生涯を終える。その跡にはまた同じクローンが植え替えられる。
それにしても、その「媚び」がハンパない。「狂い咲き」という言葉があるが、他の種類の木であれば、あれほどの花をつけたときは枯れてしまう。だが、ソメイヨシノは毎年々これでもか!これでもか!と“狂って咲く”。子孫を残さない満艦飾な“徒花”であるのだが、自分の生涯のすべてを「狂い咲く」という覚悟に決めている。
岐阜県本巣郡の有名な「薄墨桜」(ヒガンサクラ)などは1500年を越えるという樹齢なのに、ソメイヨシノのなんと短命なことか!よほど「狂い咲き」の消耗が激しいのか?それともクローンが持つ短命という悲しい運命なのか?

植物生態学的に言えば、コメはその米粒が生産性が高く美味なるが故に、人間に愛され人間に寄生して種の存続を図っているのだという説がある。ソメイヨシノはその美しさと妖しさで人間を魅了・幻惑して、自らの種の保全と存続を図っているのだろう。
彼女の樹齢は50年ではない。この巨大な個体は人間が続く限り果てしなく続いて行く。

(完)

ポトマック河畔に移植されたソメイヨシノの美観。ここからクローンが作られ全米に拡散していっている。