透明なプラスチックの貝殻のヤドカリ

生田緑地の岡本太郎美術館第十五回岡本太郎現代芸術賞が展示されていた。それに受賞したアーチストのAKI INOMATAさんの作品を観に行った。……彼女のレジメのところに当たり前だが「アーチスト」ってあるのがステキだ。

「アーチストというのは人生を生きることを本業にできる副業のことだ」

という言葉が遠くで鳴る太鼓のように響いている。「生きる」を本業にしている人の作品に会いに行こう。彼女はずっと環境芸術とかインスタレーションをやってきた人のはずだ。そのビデオを観た。ヤドカリである。ご存知のように、彼らは中古の貝殻の適当なものを見つけて入る。体が大きくなったらサイズに合うものを探し入る。彼女はこのヤドカリに透明なプラスチックの貝殻を用意した。その貝殻はニューヨークがモチーフされたアートが加わっている。臆病なヤツは尻込みするらしいが、サイズさえ合えば大体は入るらしい。でも透明だから下半身が丸見えだ。





このとき、寓意を受けた。Facebookと同じだよって。どういう貝殻でプロテクトしようとも、中味の剥き身はすっかり透けて見えているんだよって。

Facebookって怖いデバイスだと思っている。とにかく、発信している人の“正体”“性格”“IQ”とか“価値”“値打ち”とかをどんどん白日の元に晒していってしまう。多分「実名制」ということが強い補助線として効いているのだろうなとも思う。
これは“観察者”の立場からすれば「定点観測」の凄さの発揮だろうなって思う。もちろん《彼or彼女》の雑多な情報をハイパー編集して抽象化させうる見巧者としての能力も必要ではあるが……。《彼or彼女》がFBに対しての警戒感と見栄のミックスで、オノレをよく見せようとどれほど飾ったり、高い値札を貼ったりでカバーラップしても全く何の効果はない。“しのぶれど色に出にけりわが恋は”のように天然自然に“地金”が露出して“透けて見える”のだ。
シェルとしてのfacebookなんぞには我々は何も守られてはいないのだ。この透明性のシェルのセイでますます見えやすくなってきているだけだ。


それにしても、進化の過程でなぜオノレ自身の貝殻を捨ててしまったのか。自分の体を巻貝の螺旋に合わせてツイストさせてまで……。聞けば、ヤドカリの世間では恒常的に住宅難らしい。だから、彼女が彼らにとって珍奇な住宅を提供しても冒険心に溢れて入ってくるワケだ。
「剥き身のヤドカリのように脆弱な……」
という比喩を司馬遼太郎さんが使っていてにやりとした覚えがある。固陋な徳川が倒れたが、産着の上の赤子の明治政府しかなかったときの描写だった。無防備な腹部を晒す時間はなるべく短くしたい。そそくさと新しいヤドに入りたい。終の棲家ではないけれど……。

しかし、ヤドカリのなかでは余りに体を大きくしすぎて入る貝殻がなくなって、剥き身のままで陸地に上がり椰子の木に登りココナッツを食べる一生と決めたヤツもいる。南方のヤシガニだ。元・ヤドカリらしく左右のハサミのサイズが極端に異なる。その大きい方で頑丈なヤシの実に穴を開けてココナツ・オイルを食べる。
そして、この剥き身のヤドカリを食物連鎖のテッペンに君臨する人間は捕らえて食べる。時々誤ってヤシガニに指を切り落とされながらも、ディナーにする。美味だから……。


ワープしたまま何の結論もなく終わる。

(完)