打ち捨てられた志

まだ20代のころ。東京から真南に下ってグアム。そこからサイパンに向う。このマリアナ諸島は太平洋戦争の頃には日本の委任統治であった。眼下に展開する島々がかつての日本の領土だったのかという感慨はあったが、ただただひたすらに華やかに輝くエメラルドグリーンの海が続く。次の“停留所”のロタ島で降りる。
そのころロタ島は国連の委託統治であった。(現在はアメリカ合衆国自治領になっている。)
昔日本人が建設しただだっ広い空港のはるか彼方の端にニッパヤシの掘っ立て小屋があり、そこが入国管理局であった。

このロタ島は太平洋戦争の頃でも軍事施設はほとんどなく、このマリアナ諸島全域の日本語教育の「南洋学校」がおかれていた。また、このあたりの島々の中では珍しく水が豊富で、野菜の供給地になっていた。先ほどの飛行場もそうだが、港の浚渫も日本人の手による。農業とか漁業を現地のチャモロ人に教えたのも日本人。人殺しの軍属がいない完全な文民統治の島であった。
(ただ、戦争末期には守備を旨とする軍属が配置されたらしいが、一度も戦闘らしいこともなく、敗戦を迎えた。)

いずれにしても、この島の人たちにとって日本人は輝かしい文明を携えて現れたメシアのような存在であった。アンデスとかインカに伝わる「ビラコチャ」のような神に近かったのだと思う。

われわれロケ隊は島に一つしかない「ソンソン村」……そのまたたった一つのロッジに荷を解いた。
村のおじいさんへこちらから英語で話しかけたのに、意表を衝いてちょっと古式ゆかしいが綺麗な日本語で答えられて、のけぞった。改めて「南洋学校」の真面目さと律儀さを想った。
とにかく、日本人は愛されている。そりゃそうだ、「ビラコチャ」と縁続きなんだもの……。

そうこうしているときに、村人が
「日本人には是非案内したいところがある」
と言って、ジープに乗せられた。15分ほどいくとその道は溶けるようにジャングルに消えてゆく。ここからは徒歩だ。先頭の若者が山刀でそれぞれ左右の枝葉を切り払って道を作りながら進む。そうして10分も経ったころ、突然赤く錆びた「弁慶号」が眼前に現れた。緑の木々がうっそうと茂るジャングルに辛うじて胸を張って直立不動の鉄道機関車。足元には赤茶けたレールも認められた。かつてここは停車場であったのだろうが、緑の魔物に呑み込まれようとしている。

(辛うじて完全に呑み込まれていなかったのは、村の人が定期的にここへ来て、枝打ちをしてくれているからだ。)

弁慶にただ一つ残っているのは凛としたプライドだけ……。たたらを踏みながらも、きりりと背筋を伸ばしている。……“弁慶の立ち往生”……。
涙が出そうになった。なんだ、この哀しさは……「打ち捨てられた志」。

このマリアナ諸島の島々で日本の人たちは「大東亜共栄圏」の建設に実を粉にしたのだ。炎暑と闘い、マラリアと闘い、望郷の念とも闘い、 “お国のため”とムリヤリ自分自身に言い聞かせ……。
それがどうだ。ある日チョンと切られる。あっけなく絶たれる。いままで営々として続けて来た努力とか辛抱とか志はどうなる?

(完)

<弁慶号>