サラダ・ボウル①

首都ワシントンDCの中の、それこそホワイト・ハウスから数ブロック離れたところにあったのがボクの行っていた大学であった。
ラジオからは四六時中イーグルスの『ホテル・カルフォルニア』が流れていた。
https://www.youtube.com/watch?v=h0G1Ucw5HDg

……「ベトナム戦争が」どう言い訳しても “敗北”に終わり、その憂鬱と屈折が社会のいろんなところにべったりと張り付いているような……そんな時代だった。

アメリカを形容するのによく使われる“メルティング・ポット(坩堝)”という言葉があるが、そんなにいろんな人種・文化・風俗が溶け合っているわけでもない。精々“サラダボウル”ぐらいなものよっていう人も多い。レタスやルッコラ、白いセロリに黒胡椒、赤のトマトや黄色のコーン……それにサウザン・アイランドのドレッシングをふりかけて、マゼマゼするサラダボウル。決して、溶け合っているわけでもなく馴染んでいるわけでもない。星条旗というドレッシングだけがツナギになっている。

この首都にあるこの大学の学生達は世界各国から来ていて、それらがやはり“サラダボウル”になっていた。
学生の社交場ともいえるキャフテリア(学食)で出会って話しをしたいろんなヤツら。
アメリカ人学生にはノートを写させて貰ったりと随分助けて貰ったが、それらのネイティブは今回は省く。)


●オランド:ベネズエラ人。

日本人のガールフレンドを持っていたことがあるセイなのか、とても日本人に親近かを持っている。キャフテリアに行った初日に声を掛けられた。我が家で日本食を食べて貰ったり、ウエスト・バージニアに旅行したりした。いい人過ぎるほどいい人であった。
帰国してから、突然ウクライナキエフから手紙が来て、そのなかに「なぜこんな遠くに来てしまったのだろう……」って書いてあって、哀しく笑った。


デニス・カーン:コロンビアの人。

オランドの友達。彼らは同じスペイン語を喋るので“南アメリカ人”という意識でいるみたいだった。ベネズエラとコロンビアでは津軽弁と薩摩弁ほども違わないのだろう。デニスは語学の天才だった。アメリカに来て半年くらいしかたっていないのに、この流暢さはなんだ?!コツを訊ねたら、歌を丸ごと頭に入れてしまうのだといっていた。(「女を口説くときにも、そのまんま使えるし……」とウインクしていた。)
名前も骨柄もドイツ人。あのアドルフ・アイヒマンはアルゼンチンだったけど、彼の祖父はナチの残党かも知れないと睨んだが、さすがにこれは訊けなかった。


●ホルヘ:

英語読みだとジョージになるので、みんながそう呼んでいた。キューバカストロ政権が嫌で、逃げて来た人々のキューバ難民全米協会がフロリダにある。そこが奨学金制度までを持っている。親がキューバからの難民なので、そのスカラシップを貰ってこの大学に来ている。もともとが頭のいい子だと思うのだが、背負ったものの荷物の重さが違う。覚悟がハンパない。いつもきりりと引き締まった面構えであった。


●マフムード:こちらはパレスチナ難民代表だ。

当時はまだ「パレスチナ解放機構PLO)」の時代だけに、そこからのスカラシップといわれても、すぐには合点できない。言わば、 “ゲリラのスカラシップ”のようなもんだし……。
とにかく、このパレスチナ問題とか中東問題というのは、何千年も続いた怨念の堆積なので到底日本人の理解は届かない。「神がイスラエルの民に約束した地」とユダヤの神はいう。その神殿があった場所エルサレムユダヤ教のみならず、キリスト教イスラム教の「聖地」だっていうのが、物事をややこしくしている。もうほとんど、永遠に解けない「知恵の輪」のようなものだ。
そのマフードに

「君たち日本人はアメリカに原爆を2発も落とされて、何十万人も殺されているのに、今ではそのアメリカと仲良くしていられるのはどういうこと?」

と問われたけど、気の効いた答えはできなかった。
それを許してしまうのが日本人だし、3000年も恨みを持ち続けるのがアラブ人なのだが……。


●E氏:

日本人学生で優秀なのがいるのでと、教授に引き合わせられたのが彼。東大を出て大蔵省に入り、マニラにあった大蔵省の「アジア開発銀行」に出向、一旦大蔵省に戻り、この大学の3〜4ブロックしか離れていない「ワールド・バンク」に出向して来た。「ワールド・バンク」には日本政府が拠出金をだしているので、大蔵、通産の役人たちが常駐していた。通常はあてがわれた部屋で一種のモラトリアムを享受するものだが、この彼は“こんなんじゃ為にならん”とわざわざ「ワールド・バンク」の試験を受けてフルタイムの現地雇用になっていた。その上、直ぐ近くにあるこの大学のドクター・コースへの入学を希望した。(博士課程は夕刻6時くらいから始るので、フルタイムで働いていても可能だ。)
学士の資格しか持っていなかった彼は、学長にねじ込んで特別な口頭試問を組んでもらい、“なるほど。言うだけの事はある”と実力を認められ、博士課程に進む事ができた。

キャフテリアなどで会ったときに……

「ボクはマスター・コースだけでひーひー言っているのに、あなたはドクター・コース。それもフルタイムで働いている。いつ勉強をしているんですか?」
「寝ない事です」

返す言葉もない。ピリオドだ。

またあるときは、

アメリカ人なんてバカばっかりです。そのバカに馬鹿にされないように、お互い日本人として頑張りましょう!!」

なんてことを言われる。
“頑張るのはキミだけにしてくれ……。こちとら、もう限界なの。賤業の代理店風情ですから……”

もうね、ハナから人種が違うワケ。搭載されているエンジンの馬力の出力が比較にはならない。
彼は日本に戻ってからほどなく大蔵省を離れ、しばらくして和歌山あたりから立候補して衆議院議員になった。何期かはやったが、いまでは政界を引退している。

いずれにしても、東大法学部→大蔵官僚という典型的なステレオタイプを観察するという貴重な経験はできた。まあ、畸形の日本人ではあったが……。


(続く)


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