宗教的なるもの(「葬式無用戒名不要」)

それまでは「年籠もり」などのようなものだったのが、新暦の正月に神社に行くという「初詣」は、明治以降にできた日本の風習であり、それに便乗して、その頃発展しはじめた鉄道会社が閑散期に利用客を増やすための「マーケティング戦略」であったという話にちょっとケツマズいて転びそうになった。
つまり、チョコレート屋の「セント・バレンタイン・ディ」とかKFCの「クリスマスのチキン」のようなものだったんだね。年に一度の稼ぎ時で必死なだけなのか……。

いずれにしても、二〜三年に一度くらいの「初詣」と年に一度か二度の墓参りが私の“宗教活動”のすべてである。

そんなわけで、通常は「無宗教」って答えるのだが、アメリカ人に質問されたときには「仏教徒」と答えるようにしている。踏みしめているところがよんどころなく仏教もしくはそれに似たものだからだ。だが、なんとも後ろめたい。極めてプリミティブなシャーマニズムとかアニミズムにも達していないのが自分の“宗教的素養”である。
だからといって、そういうレベルに終始している「神道」を信仰しているわけではさらさらない。

このようなデータがある。

日本の宗教を信じる信者数は一体どのくらいいるのか?文化庁の調査によると、現在2億1000万人余りの信者が各宗教団体から報告されている。その内訳は、神道系約1億860万人、仏教系約9350万人、キリスト教系約220万人、諸教約960万人である。日本の人口は約1億2500万人であるから、人口よりも多い信者数がいることになる。一方、世論調査による日本人で特定の宗教に入っていると回答している人は1割弱、単純換算すると約1100万人しかいない。
奇妙な数字である。だが、何をもって信者とするのかという定義のレイヤーが違ってしまえば、日本人のほとんどの人間は神社に行きお祈りをし、賽銭という寄付を行い(神道の信者)、またそのほとんどの人間が入るべき墓を持っているか、持とうとしている(仏教の信者)。
ただ何となくではなく、きちんと信心し、活動を行っている人は10人に1人ぐらいであるとされている。
(「日本の伝統精神とは−日本人にとっての宗教から考える」:塔村俊介)


書籍では何冊かの宗教的なるものを読んだ。もちろん、このことで宗教的な酒精分が自分の体内で十分に発酵したなどとは露ほども思ってないが……。

随分若い頃、「キリスト教」と「仏教」の入門書のごときものをチラチラと。もっと手前では、『人間の宗教』(タゴール)『不滅の言葉』(ラーマクリシュナ)『ヒンドゥー教〜聖と俗』(森本達夫)『空海の風景』(司馬遼太郎)などなど。

後二書は相当な衝撃と震撼であった。
ヒンドゥー教〜聖と俗』……アートマン(純粋自我)とブラフマン(宇宙を支配する原理)を合一させることを生涯の目的とする。一生涯で到達できなきゃ何世代も生き変わり頑張る。なんとも恐ろしい宗教だ。このブラフマン真言密教では「大日如来」になり、その宇宙と合一することを「梵我一如」ということになる。

「思想家としての空海は天才とかなんとかいうより、空海が宇宙そのものであった……。」(司馬遼太郎『微光のなかの宇宙』)
という言葉にいたく刺激されて、『空海の風景』を読んだ。もの凄い。叩きのめされて粉々になった。司馬さんのいう通りであった。
いずれにしても、「空海」を読む際に、ヒンドゥー教の基礎知識が随分と役に立ってくれた。


周辺を「宗教」というターミノロジィで見渡してみる。
まずは宗教的接触……

地鎮祭」や「鎮守の祭り」の時の神主。法事・葬式の時の僧侶。……まあ、平均的な日本人が接触する「宗教」とか「宗教家」なのだが、圧倒的な存在感、学識、叡智、洞察などに気圧される、もしくは、そのバイブレーションに心地よくなる……なんてことは経験したことはない。微塵もない。これでは“衆生”を惹き付けられるワケもない。単なるイベント屋とかプロモーターになっている。
もちろん、空海は日本の歴史が生んだ最高の天才で叡智に間違いない。さすがに、その偉大なインテリジェンスと比較しようとしているわけではない。それにしてもだ。無残なものである。

次に宗教施設のようなもの……

我が家の横に「お地蔵さん」がいる。「地蔵菩薩」ともいうが、ヒンドゥー教の神様から来ている。つまり、インドの民俗信仰(シャーマニズムアニミズム、もしくは“雑密”といってもいい)のなから、ゴータマ・シッダルダにより「仏教」は編みだされて来たのだが、その「仏教」が日本に入って来たときに、一緒に根っこのヒンドゥー教の神々も入って来ている。

自宅から5分くらい歩いたところに「馬頭観音」がある。これももともとはヒンドゥー教だ。こんなシュールなのはヒンドゥーに決まっている。

高校の同期会を神楽坂でやる。その定席の前が善国寺という寺だが、ここには「毘沙門天」が祀られてある。あの「七福神」の一人で学問と博打の神様というから面妖だ。「七福神」を含めこれらもすべてヒンドゥー教の神々である。

昨年の11月ころ、近所の街道沿いの古い家を立て替えで壊していた。壊し終わって見晴らしがよくなった後ろの敷地から忽然と「お稲荷さん」が現れた。
この「稲荷」ってなんだ?
「稲荷信仰」の総元締めは「伏見稲荷大社」らしい。もともとは新羅あたりから移民として渡って来た秦氏の守り神であったものが、全国を蚕食したものらしい。元来は「稲」の神なのだが、食料、産業全般というように、万能の神として重宝されてきたようだ。「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われるくらいに人口に膾炙して、神社としては日本で一番多い。

「稲荷明神」とも呼称されるが、この「明神」ってなんだ?
どうやら「神仏習合」という野合らしい。
秀吉は死んで「豊国大明神」になった。家康は家康で「東照大権現」という神になった。この「権現」も先の「明神」も“仏が神のかたちをかりて現れた”とする「神仏習合神仏混淆)」である。
なんでそんな面倒なことをするんだ。要するに御都合主義。


昔の日本人は世界を表すのに「唐天竺」と言ったが、その中国からもインドからも神様は日本に渡って来ている。切支丹もキリスト教も。新羅百済からも。縄文人の神様も、アイヌ人や琉球人の神様も。ツングース族の神様もどこかに潜んでいるはずだ。おっと、日本神話の神々も。

だから、日本人口の数よりも信者の数の方が多くなる。まあ、融通無碍でいい加減でゆる〜い縛りの宗教ばかりだからいいのだと思う。イスラムのように多岐に渡りながらも、それぞれの縛りがキツい宗教だと大変なことになる。中東情勢が外国人の目から見ると、永遠に解けない “知恵の輪”のように見えるのはそのこんがらがりかたが尋常ではないセイだと思う。


だがともすれば、大変に根こそぎな疑問が湧き出る。

“人々に安寧をもたらすためにある宗教が、なぜこんなにも人々を不幸の淵に突き落とすのか?”

2001年のSeptember 11からだけでも、宗教が絡んでいない戦争・紛争・テロリズムを数えるのに苦労するはずだ。
口はばったいが、宗教に対する底の抜けたような不信はある。人類は宗教を捨てた方が、幸せになれるのではないか?と。


敗戦後、吉田茂の懐刀としてGHQと丁々発止と切り結んで、彼らをして「従順ならざる唯一人の日本人」と言わしめた白州次郎。彼は白州正子に「葬式無用、戒名不要」と言い続け、未亡人はその望み通りにした。これに倣おうかと思っている。そして、それには「散骨」が似合うだろうなとも思っている。

無神論者には無神論者としての矜持が必要だろう。


(完)