『空海の風景』

相当前のこと。
満員の通勤電車のなかで前の男が本を読んでいた。車内吊りを読む位置にもいない。仕方なしに彼の本を彼と一緒に読んでしまっていた。

「思想家としての空海は天才とかなんとかいうより、空海が宇宙そのものであった……。」(司馬遼太郎『微光のなかの宇宙』)

この言葉が突き刺さった。かつて単行本で『空海の風景』を持っていた。だが中途でギブアップしたのは、あまりに小説としては面白くなかったからだ。再度、文庫本版で買い直した。

この宇宙的天才の空海は当時の唐の都長安に着いて半年ぐらいで中国語をマスターし、宮廷において詩人や書家としても名を馳せ、サンスクリット(古代インド語)の学習に入り、それが運命であるかのように青龍寺真言密教七祖の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に会っている。
「お前がくるのをずっと待っていた」
と恵果は言ったという。
恵果は自分が持っているものをそれこそ棚卸しするがごとくにすべて空海へ伝授している。
ついにはその七祖から正式の跡目に指名され八祖になった。つまり唐・天竺(当時の世界)の密教の総帥になったわけだ。

十年の平安朝政府との契約で渡った唐の都長安をたった二年間に圧縮して日本に帰国する。この間に彼が会得したものに目がくらむ。とにかくすべてが凄まじく、本当に彼は人間なのか?(彼を人間とすると自分の存在の儚さ・か細さに涙する)と何度も思った。
いずれにしても、日本歴史が生んだ最高の知性・天才・叡智が空海だと思う。(同時に日本で最初で最高のグローバル人材でもあった。)

密教での最高神は「大日如来」(太陽もしくは宇宙……)なのだが、空海自身がこの「大日如来」と血縁したというからただごとではない。
(まあ、ヒンドゥー教では「アートマン<純粋自我>」を「ブラフマン<宇宙を支配する原理=大日如来>」に合一させることがゴールとされているので、その合一を成し遂げてしまったのだろう。)

密教そのものの解説は凡夫の私には遥かに手があまる。簡単な理解だけで言えばヒンドゥー教をインド仏教に入れ込んで体系づけたものかなって思うけど(もしくは仏教もヒンドゥー教という大海に浮かぶ小島なのかもしれない……)、ヒンドゥー教が当然のように持っていたアミニズムとかシャーマニズムもたっぷりと包含している。つまり呪法、まじない、幻術のようなものも当たり前のように含まれていて、それらも丸ごと空海は恵果から受け継いだ。(専門用語では「神秘主義」と包括されるもの。)
弘法大師として諸国を巡回し民衆教化を行った際に各地に残る彼の奇跡はこの事にもよると思う。

ただ残念ながら、彼ほどの宇宙的な天才はやすやすと現れるわけではなく、彼が高野山ではじめた「真言密教」の後継者はいまだに見つかってないのだと思う。「即身成仏」した空海はいまだに9代目になる宇宙的天才を待っている。


誤解を恐れずに言えば、この『空海の風景』は小説としては面白くない。それも無理からぬものがある。書く対象が「宇宙」とか「大日如来」だ。いかな司馬遼太郎さんといえども、難事業だったのだと思う。だが、司馬さんじゃないと空海は書けなかったとも言える。

それにしても、どれほどの碩学といわれる学者先生にも臆することなく普段通りの姿勢を崩さない司馬さんが、彼の著作の『九つの問答』や『十六の話』での井筒俊彦言語学者イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者)さんには、ほとんど平伏して子犬が尻尾を振っているが如きの有様に微苦笑を禁じ得ない。司馬さんは井筒さんを評して、
「人間とは何かということを、言語以前の深層で把握されて体系づけている方はこのような透きとおり方になるのか」
とどこかで書いている。
空海に関してはこの幾層倍もの平伏の仕方なのである。
なんといっても“宇宙そのもの”なのだから……。

(完)