量子力学そして認識論

「量子」とは原子以下の極微小サイズの電子、光子、中性子素粒子などをひっくるめていうらしいのだが、原子以上のサイズのものの振舞いと、この「量子」の振舞いはとことん違うということらしいのだ。それまでのニュートン物理学などの古典の常識をことごとく裏切るのだという。
量子力学」とはそれら微視的なものの物理学のこと。


この量子は「物質の性質」として粒子性であるが、「状態の性質」としては波動性である。いや、この両方の性質を同時に“持って”いるという。
“「粒」と「波」の両方ね”なんて分かったような顔をしてウソブイてみても、それらが“重なり合った状態”であるんだなんていわれて、さらに遠霞になってくる。


そして、ここに「観測者問題」が絡んでくる。「量子は粒か波か?」ということを観察する者が、“これ粒じゃね?”って思うと、量子は波の振舞いをするというんだね。“これは波じゃね?”って思うと波の振舞いをするという。
(彼らはそんなにサービス精神が旺盛なの?)
いやつまり……観測者の念が観測の結果に影響を与えてしまうというんだね……。
極めて理系の「物理学」の分野に、なんとも文系な「観測者の思考」という形而上的なものがずんずんと踏み込んでくる。“えっ?そんなのアリ……?”
物理学が一瞬で哲学に導かれる。



当初は「量子力学」の強力なサポーターであったアインシュタインも、
このように偶発的な確率にオンし過ぎて、余りにも曖昧だとして、

神はサイコロを振らない

という名言を吐き、「量子力学」が持つ非因果性を難詰し離れて行った。

さらにアインシュタイン量子力学非実在性についての訴追も行い……

「月は見ていないときには存在しないのか?」

人が見た時には月は粒子状で固まって所定の位置にいるが、誰も見ていないときには波動してどこかに行っている……ってことなのか?と問うた。月が宇宙に「ある」ことと「ない」ことが重なり合って存在しているの?と。
これには私も悩まされた。月夜の道、背後では月が雲間から顔を覗かせているだろうというときに、素早く振り返ってみる。空のどこかを月がふらふらしていないのかという“ひとりぽっちの実験”を何度もした。でも、月はいつも所定の場所にいる。



この流れと同じゃないかと思うのだが、次のフレーズにも私は永い間囚われの身になった。

「誰もいない深山の森では、老大木が無音で倒れる」

音をキャッチする人間はそこにはいないんだから、音もしないという。静寂のママのなかを、周りの樹々を両脇に抱え込んでメタセコイアは呆然と倒れる。
……でも、リスの鼓膜を震わせてはいるので、リスなりの「音」は感じているのじゃないの?……でも、その証拠立てを何も持ち合わせてはいないのだが。



こういう“哲学的認識論”の系譜だと、小林秀雄の……

「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」

自分が感得した美しい花はあるが、ユニバーサルに万人に通用する花の美しさなんてものはこの世にない。……といっているのだろうね、これ?
だとすれば、日本画東山魁夷がもっと平易にすらりと言っている。

「人の心理とか感情の入っていないで、美しい風景とされるものはない」



話はクセのある走りをする競走馬のように横に捩れながら駈けている。
馬首を立て直す。




量子力学のもの凄さが解らないのは、量子力学を理解できないからだ」

とあるブログに書いてあった。その通りだと思う。とりわけ、文科系の人間にとっては基礎体力が絶望的に不足していて、雲を掴むというか掴めないというか、理解することなどに踏み出した最初の一歩で挫いてしまうテイタラクである。
ま、理科系の友人に訊ねてみたが、彼らもわれわれ文科系とさほど変わらない。彼らにとっては、認識論とかの哲学分野の混入が理解を困難にしているのかも知れない。

とにかく、この理論を応用して現在各コンピュータ・メイカーが取り組んでいるのが「量子コンピュータ」だとされている。理論的には現在の最速スーパーコンピュータで数千年かかっても解けないような計算でも、量子コンピュータなら数十秒でこなすといわれている。
文科系頭脳ではこれぐらいの理解のところでガラガラッとシャッターを下ろす。深手を負わないうちに。


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フリーのアナウンサーなどをやっているアラサーの女性と、パーティでたまたま隣り合わせになり雑談をした。彼女はどこをどう突いても文科系(よく言って……)でしかない。その彼女がゴリゴリの理科系の男性とデートをしたときの話をしてくれた。
閑話休題:アラサー女子にとって結婚の“隠れ候補”マーケットとして理科系大学院男子はなかなかの人気らしいのだ……。調教し易いとか。)


「で、食事しながらだったんですけど、彼はずっと量子力学の話だったの、3時間も……」
「うわっ!そりゃ大変だ。難しくてつまらなかったんじゃない?」
「ううん。面白かった」
「へえ〜どこら辺りが……」
「彼が一所懸命にしゃべるのが、可愛いのよ」
「あらら……」
「あんなに目を輝かして情熱を傾けて話されちゃうとドキドキするのよ」
量子力学自体の中味はどうだったのよ?」
「それはいいの。彼が力込めるタイミングで、すご〜い!って言ってればいいんだから。凄い!ってことで間違いはないんでしょう?」
「まあ、そうではあるけどね」



「女族」って凄いよね。大概の女の人は男をナメている。能書きこいて、演説して、正義とかを振りかざし、立場とか志とか思想といったどうでもいいことに血祭りを上げ、挙げ句の果てにまったく大したことなんかできない「男という種族」にタカを括っている。

「いろんな生意気言ってもね、私がお前のおしめを換えてあげたんだよ」
という母親の肝の座り方と繋がっているのだろうと思う。つまり、アレ……
「いろんなゴタク並べてんだけど、あんたらって子ども産めるの?」
という“認識論”というか“見切り”に勝てるものってそうそうない。
量子力学」だって、彼女たちからすれば“ちょこざいな!”って程度らしい。


(完)