私のAmazing Grace〜神の恩寵

今では「グリーン大通り」って名前になっているようだ。JR池袋駅の東口から地下鉄東池袋駅方面へと真っすぐに伸びた大きな通り。
大学3年の春だったと思う。北海道への帰省に際しての旅行用バッグを求めに池袋へ出た。
要町のバス停を出るときには小雨模様であったのに、池袋に着いたら雨は上がって、その代わりちょっと強めの風が吹いていた。そのなかを目当ての店があるでもなく、その「グリーン大通り」の店を物色しながらそぞろ歩いていた。

多分、現在でいえば「ニッセイ池袋ビル」の斜め前の「三井住友銀行」ぐらいのところであったと思う。
突然、大きなエネルギーにぶっ飛ばされて歩道をゴロゴロと何回転かした。店の人が飛び出して来て、
「学生さん、大丈夫?怪我は?」
と助け起してくれた。そして、歩道に横たわっている畳一枚大の波板トタンと天空を交互に見ながら、
「アレだ!アレ」
と叫んでいた。

そのころ初めて我に返り、状況もようやく把握でき始めた。その店が入っているビルは7〜8階で、その屋上は広告塔になっている。その広告看板の差し替えだかネオンサインの工事中らしかった。それをトタン板で覆っていたが、強い風に煽られて一枚剥がれて落ちたらしい。
(今ではイントレを組んで強靭なビニール製の布で覆うものだが、当時は結構いい加減だったのだろう。)
そのトタン板が枯れ葉の舞うようにジグザグに左右に揺れながら地上7〜8階から舞い降りてきて、最後のジグザグが私の左腿にその切っ先を叩き付けたのだ。
柔道をやっていたセイなのか、利き腕の右手はいつもフリーにしておいて、物を持つのは左手にすることが習慣になっていた。そう、そのときは雨が上がったので、左手で傘を座頭市の仕込み杖のように持っていた。その握った左拳のすぐ下の傘のシャフトがぐにゃりと“くの字”に曲がっている。
つまり、波板トタンの“刃”がここに直角に激突したことになる。そのシャフトの曲がりがズボン越しに腿に多少のダメージを与えたらしかった。ベルトを緩めて、左腿の外側を窺うとうっすらと血が滲んでいる。
つまり、波板トタンの“刃先”は傘のシャフトが緩衝材となって受け止めてくれて威力を殺ぎ、ごく軽症に済ませてくれたということになる。このシャフトが“身代り地蔵”……。

その日のそれからは何ごともなかったように、旅行用バッグを買って要町のアパートに帰った。
(ショックで一種の痴呆状態だったのかも知れない。)
その夜、昼間のことを考えていて、じわじわと震えの来るようなショックがアフタービートで襲ってきた。
もちろん、あんなところで空からトタン板に襲われるということ自体がまず不運だ。
どこかの店でもう少しウインドー・ショッピングに時間を掛けていたら、難は免れたはずだ。
さらに……。
あの激突がちょっと上であれば、手が酷いダメージを受けていた。左手を失っていたかも知れない。
もっと上なら……首なら打ち首かギロチンだったろう。
さらにもっと上の顔でも悲惨なことになる。
もっと下の……足首でも脛でもシリアスな事がおきたはずだ。
そしてトタン板が右側来たら、もう何も遮る物はなかった。なますにする大根のように切られていた。

でも、そうはならなかった。望み得る最軽微ともいえるダメージで終わっている。

要するに、あの傘のシャフトがあれからの私の人生を提供してくれたのだ。
いずれの神にも仏にも信心とか信仰はない。鰻の蒲焼きに振り掛ける山椒の一粒の粉ほどもない。
しかしこのことだけは、さすがに“神の意志”を感じてしまう。あれが私のAmazing Grace(神の恩寵)だったのかも知れない。人がよくいうアレだ。……“あのとき生かされたのだ”と……。

このメモリーは頭の片隅の細い路地の突き当たりのゴミ箱かなにかに放置されてあった。つまり、忘れていた。それがここんところこの「グリーン大通り」をよく通る。通るたびに“予定されたデジャブ”のようにあの時のことが甦る。まかり間違えば、こうなっていたかも知れないという凄惨な映像も白日夢のように観てしまう。
こうして書く事で昇華させたい。
もうそろそろソレをゴミ収集の清掃車に積んで、“夢の島”でもどこにでも持ち去ってくれていい。

「ありがとう。あれから十分に楽しく生きて来たからね」
「これからもうちょっと生きるけど、いいよね」
と言って見送る積もりだから……。


↓(現在の「グリーン大通り」)


(完)