国会正門前

●7月15日。夕方から外せない先約があったので、まだ暑いさなか国会議事堂まで急遽出掛けた。
……というのも、この朝「安保特別委員会」の審議がヤマ場に差し掛かるというのに、NHK国会中継はなぜかやっていなかった。そのセイだと思うが、インターネット中継は集中のためダウンして、やっと誰かが個人でやっている「ツイキャス」で観た。その「安保特別委員会」の審議が酷く、浜田委員長が強引に審議打ち切りにしたのが腹に据えかねたからだ。


■55年前日米安保改定で、その安保反対と岸内閣倒閣の激しい運動が起こった。私もその運動のなかにいて、国会正門から雪崩れ込み、今は伝説になった樺美智子さんは私のほんの5〜6メートルの所で帰らぬ人となった。
我々の対峙するのは〝鬼の七機〝と恐れられていた精鋭部隊の「第七機動隊」だったが、それまでは〝平和的なおしくらまんじゆう〝に過ぎなかったのが、その時彼らは初めて警棒をしたたかに振り下ろしてきた。一気に崩れ去る学生たち。
三宅坂を散り散りになって駆け下りる。そこへ坂の途中にアンブッシュしていた他の機動隊が襲いかかる。鼻を樫の棒で激しく打ち据えられて鼻血を流しながら、坂を下って銀座方面へと逃げた。

落ち武者のように有楽町駅まで落ち延びて、まだ夜が開けてない改札を飛び越えてホームに上がりベンチで始発を待った。まだまだ暗闇が支配している。
そのベンチの傍らからうめき声が聞こえる。横たわっている学生がいる。
「どーした?」
「発煙筒か催涙弾が顔の前で爆発したんだ」と切れ切れに言う。
「学校はどこだ?」
「東大」
「ちょっと待っていろ。仲間を捜してくる」
……ほどなく東大の男たち何人かが見つかり、彼を引き渡した。
近くの病院だと警察から手配が廻っていて、「警察病院」に連れて行かれて逮捕される。「必ず東大病院に連れていけよ」。

始発がやっと来た。下宿への最寄りの駅へと向かった。鼻血と放水で濡れ、さらに催涙弾で眼はショボショボ。ボロ雑巾のような風体ではある。駅から下宿までの道のりに交番が3つもあった。それを避けて迂回しながら帰った。

そして、3日後にあえなく日米安保は批准された。
だが、程なくして、岸内閣は倒れた。

機動隊に棍棒で殴られたことによる鼻血は、それから半年間は洟をかむとチリ紙にドロリと滲んでいた。
その度にそいつが、
“お前達頑張ったかもしれないが、日米安保は通過したじゃねーか?まあ、岸内閣は倒れたけどね”
と嘲笑っていた。

安部首相はそのジィちゃんの怨念を晴らしたいらしい。
そーか、こちらにも因縁はある。


●久し振りの国会議事堂前駅。万が一の場合の防空壕になっていると噂されるこの駅は深い。長い長い階段を幾重にも折れて上がる。55年前の6月19日直前には、この階段に額が割れたり、ハンカチで応急手当をした腕を吊ったりした学生たちがゴロゴロ転がっていたものであつた。
駅を出て地面に出ると、溢れんばかりの機動隊と彼らの装甲車の数だ。だが、デモ参加の年配の男がその機動隊隊員に、
「国会正門はどちらですか?」
などと訊ねている。平和な民主主義はまだ生きているワイ……などと思い、正門の方に歩を運ぶ。
国会正門はバリケードされていて、デモ隊(と呼んでもいいのだろうな?)は道を挟んだトイメンあたりの歩道に取り止めなくかたまっている。今日も30度は越えているのだろう。暑さを避けて、よく繁った銀杏の下の日陰に避難している人が多い。それでも「戦争反対」「アベを倒せ」などのプラカードは健気に掲げている。ノボリから見ると、千葉、埼玉、北海道、富山、静岡、長野、名古屋からも駆けつけているらしい。

55年前はこの三宅坂の両側に壁のように機動隊が並んでいるなかを、〝スネークダンス〝と海外特派員が描写したジクザク行進をしたものだが、この2015年の老若男女取り混ぜたデモグループのなんと平和的な事だろう。
大きな銀杏の下にどこかのデモ隊が用意してあった小さな折り畳み椅子を拝借して、暫く行き交う人や座り込んでいるデモの人々を観察していた。




ふと、見上げると、青い銀杏の実が無数にぶら下がっている。
日本の民主主義のようにまだ青い実が……。秋には腐って悪臭を放つのだろう。

やや離れたところから日蓮宗の人だろうか団扇太鼓を叩く音が聞こえてくる。暑い。すっかりヤワになった身体と精神は程のよい冷房とカプチーノを欲している。大分早いけど神楽坂に出よう。
そこのカフェで汗だくになっていた下着も用意していたものに変えた。

それにしても、今回の国会正門行きが思いもかけずすっかり55年前へのセンチメンタル・ジャニーになってしまっているのに、やや狼狽する。もとより封印しておいたワケでもない。だが、一旦抜栓したシャンパンから炭酸ガスの泡が立ち上るように次から次とメモリーが湧き出てくる。
まあ、自分の人生であれほど真剣に真摯に生きた期間もなかった。あれほど心を燃やした時期もなかった。

そのことを神楽坂のカフェでiPhoneに書き付けてみた。これが55年前の“日々の泡”。


■55年前の春。
大学に入った途端に“安保闘争”という政治の季節で、授業にはほとんど出ずに、学内の集会、街頭デモへの日々。当初は集会に出ても、確かに彼らは日本語では喋っているらしいが、意味がほとんど分らず、下宿に戻って『資本論』などという難渋な本を教科書として貪り読んでいた。(この間が大学で一番勉強したかも……)
つまり、高校時代に単に受験の知識としてのカール・マルクスなりマックス・ウエーバーであったものが、その思想にジカに触れるというのが甘美的であったのかも知れない。

55年前の6月。その頃も今年と同じく毎日のように雨で、ずぶ濡れになりながら、スクラムを組んでデモ行進に参加するワケだが、すぐ前の女子大生のズボンが雨に濡れすぼり、肌の感覚が布地にまで浮き出してきて、それにドキドキしているだけが青春であった。(寂)


■55年前の6月15日。「国会正門」前周辺に集まったデモ隊の数は30万人を越えた。(全国でも動員数は100万人に近かったのかも知れない……)

それまで日々増えてゆくデモ隊の数に対しても、岸信介は「私には“声なき声”が聞こえている」と嘯いていた。つまり日米安保改正に賛成する国民は十分にいるんだということであった。それなどもあり、デモ隊の矢を射る的は安保反対自体よりも「岸を倒せ!」に移って行った感じはしている。
東条内閣の閣僚を務め、A級戦犯である岸信介は敵役(ヒール)としてこれほどの適役もいない。
自民党の元老・朋輩からも“あいつはもういいんじゃないか?”という発言が聞こえてき始めたらしい。それで焦った岸はデモ潰し要員を右翼の巨魁に頼んで博徒テキヤ、旧軍人など3万人を調達した。カネのタカにして3億円が手渡されたという。(この腐れ縁は依然として自民党に根を張っている……)そのカネの末端が流れたのか、体育会系学生が真っ黒なガクランを着てアンチ・デモをやっていたけど物の数ではなく、“ゼンガクレン”から罵倒されてスゴスゴと退散してすぐにいなくなった。
いずれにしたって、30万人の前にはヤーさんたちも体育会系も大したことができるはずもなく……。
岸が彼の生涯のなかで「人生で三度死ぬかと思った経験をした」と言っているが、その三度目がこの日。首相官邸にいた彼は、デモ隊にすっかり囲まれて、大音量のシュプレヒコールに怯え切ってしまったらしい。自衛隊に治安出動を要請したが当時の防衛庁長官に拒否されてしまった。

そんな恐怖の一夜を過ごしながらも、6月19日には新条約は自然成立をし、6月23日に“詰め腹”を斬ると表明をし、7月15日から次の首相の池田に交代をした。もし首相を続投していたら、軍隊を持つ事ができるように「憲法改正」する積もりであった。


●今回の7月15日の「安保委員会」で浜田委員長が審議を打ち切りに打って出て、詰め寄る野党の連中にもみくちゃにされながら、「もう止められないんだ!止められないんだ!」と繰り返したのは、首相からの強い指示があったのだろう。なぜ7月15日か?
その日は祖父が退陣した“敗戦記念日”。55年経ての“意趣返し”なのか?(多分このことだけではなく、アメリカとの約束を守るためのスケジュールなどのいくつかの理由の一つだろうが……)
この不肖の外孫は祖父が夢見たことをオレが実現してやるんだということに強い願望を持っているように見える。とにかく“日本に強い軍隊を持つ”ということらしい。


■再び55年前に戻る。
つまり新日米安保は批准され、岸内閣は倒れたが、また再び自民の首相が後継になる。誠にもって政府というか政権というものは柔軟でかつ堅牢なものだ。全国で100万人規模のデモを組織して、国会周辺に30万規模のデモを連日のように一か月近く続けて、やっと「倒閣」だ。でも、ここまで。
当方は壮大で深刻な喪失感というか“荷下ろし症候群”に襲われた。ぼっーと白痴のように過ごしているうちに気がついたら4年生。就職の季節になっていた。結局、広告代理店に職を求めた。
4年生の冬に近い秋の頃、久し振りにかつての “同志”から電話が来た。

「ああオレ。キミは就職は?」
「うん。●●って知っている?あそこに行く事にした」
「ふ〜ん。キミも“資本主義の走狗”になるのか……」
「……すまない……」
「うん。いや、いいんだ……人はそれぞれだし……」

それっきり二度と電話はこなかったけど、今や死語の“資本主義の走狗”というフレーズはずっと繰り返して通奏低音のように耳の底で鳴り続けている。「資本主義の手先のお先棒かつぎの犬……」


●今回国会正門に行き、デモの人々を見て、少なからず驚いた。ホントに普通の人が参加している。個人とか少人数のグループがほとんどだ。
夜には学生のSEALDsが参加して、6万人ほどの規模になったという。(当の安部首相は例の読売のナベツネと赤坂だかで会食だってさ。祝杯?)
確かに55年前とは様変わりはしているが、以前ニュースで見たことがある手をつないで三々五々歩いている“フランス式デモ”を彷彿とさせていて、好ましい。


●最近、各界のいろいろな人が、
「こんな社会にするために我々は頑張って生きてきたわけではない」と発言している。マコトにマコトに自分もそう思う。(自分はあんまり頑張って生きてはこなかったけど……)こんなヤナ渡世が来るとは夢にも思ってもみなかった。

現首相は「国家」は考えるけど「国民」のことはほとんど考えていない。そこが一番の嫌な感じだ。「国民の皆様の理解を得て……」と言うときのあの空々しさは一体なんだ?
これが55年前のデジャヴとするなら、この内閣も倒れる。
夜空に国会議事堂が虚しく白く光っている。



炭酸ガスの泡が立ち上るままに、とりとめなく書いてきた。まだその泡がちらほら立ち上る。それを【エピソード】として断片的に置いてみる。


【エピソード①】

6月15日は樺美智子が死んだ日でもある。それまで機動隊は警棒を胸の前で横一文字にして両手でデモ隊を押すという使い方に徹していた。盾もなし。モチロン学生側はまったくの素手。国会正門から雪崩れて入ったとき、機動隊ははじめてその警棒を振り上げて武器として使い始めた。そういう指令がでたのだと思う。
最前列の学生は堪らず退く。だがその事情が分っていない後続の学生たちは押し寄せてくる。私は正門から5〜6メートル入ったところにいたのだが、後退するエネルギーと前進してくるエネルギーに挟まれて、自分自身の体が浮き上がった!そんな地に足が着かない状態が数秒以上はあった。
樺美智子さんは、多分、その時転倒して、初詣での階段の人雪崩の犠牲者のように下敷きになったのかと思う。もしくは、機動隊が振るった警棒の当りどころが悪かったのかも知れない。


【エピソード②】

春4月のころからデモに参加していたのだが、当初はとても長閑なものだった。街頭デモには両側に機動隊が林立はしていたが、デモの学生もただぞろぞろと街頭を歩き、拡声器からのリードに合わせてシュプレヒコールをするだけ。それが信号待ちなどで、しばし立ち止まる。
すぐ側に機動隊という集合名詞ではなく一人の機動隊員がいる。つまり一人の若者がいる。そのころはヘルメットさえ被っていなかったと思う。よくみるとまだ20歳そこそこ。少年のような顔をしている。(こちらもそうなんだが……)そいつが急に話しかけてきた。

「お前達さあ、取り敢えず大学ってとこで勉強出来るんだろう?」
「まあ、そうだけど……」
「だったらさ、勉強しててくれない?勉強したくても出来ないヤツもいるんだよ。キミたちがいうプロレタリアってヤツにはね」
「……」
「オレたちも寝る暇がないぐらいに大変なのよ」
「すまない……」

そんなわずかなヤリトリであった。多分、彼の訛から察するに東北出身。貧農の次男か三男。成績もよかったのだろうけど、柔道も強かった。大学にいくほどの余裕がないので、東京の警視庁の難関の試験をパスして、ここにいる。
恵まれた学生の“思想ごっこ”になんで付き合わされるんだ?
それらが行間から滲んで見えたので、顔を赧めながらも素直にごめん!と言えた。

それにしても、奇貨ともいえる経験であった。


【エピソード③】

実を言えば、今回のような目的で国会周辺に行ったことがもう一度ある。70年安保反対のとき。会社のデスクに落ち着いて座っている事も出来ずに矢も盾も堪らずに、三宅坂ちかくまでタクシーを飛ばした。
でも様変わりをしてしまっていたのに驚いた。60年安保のころとは機動隊の装備も比較にならないほどいかつくなって、それに対する学生側も角材、石。火炎瓶などを武器にしていてさらに戦争・戦場化していた。
涙が出そうになった。
“そんなに頑張っても、何かが変わるのかよ、オイ……”

その後雪崩れるように「連合赤軍」「浅間山荘事件」へと変移していき、痛切な思いがした。


【エピソード④】

それから、13〜14年も経った頃か、仕事で羽田発鹿児島行きの全日空。自分のチケットの座席に岸信介が座っている、その横は福田赳夫。わざと自分の人生で一番不愉快な顔をして、無言でチケットを彼の目の前に示した。アタフタし始める“昭和の妖怪”。後方の座席にいた秘書らしき男が飛んできて、「あちらの席と交換願えませんか?」と哀願する。スチュアデスも寄ってきて“そうして呉れると助かります”という顔をしている。こちらはますます傲岸不遜な態度でニエット!
彼らは渋々後方の席にユニットで移動して行った。福田が座っていたところには先ほどの秘書らしき男。……まあ、陣笠だったかもしれない。居心地はすこぶる良くないが、一種“江戸の仇を長崎”の気分。……それにしても“オレも人間が小さい”という自嘲に苦く笑った。


*   *   *   *   *   *   *   *   *   * 


まだ細かな泡は立ち上っている。
だが、長くなりすぎたのでこの辺で……。
この「60年安保」で誇るべきめざましいリーダーシップを発揮したというわけではまったくない。入学仕立てだったので、それらのデモ隊のなかででも新入で、つまりは新兵というか雑兵に過ぎなかった。
つまりは泡沫であった。

ラテンの箴言で……
「人間は泡だ」
というのがある。
それを踏まえたのだと思うが、
「人生は泡のよう。消えないうちに愛して」
ボリス・ヴィアンが『日々の泡』のなかで言っている。

そもそもがその泡のようなもの。
泡であるからには、いつかは消える。
人も人生も泡。
記憶も思い出も泡。
消えないうちにそれらを愛しておこう。


(完)