『日本語が亡びるとき』感想


日本語が亡びるとき』を読み通すのに随分時間を掛けてしまった。中味で450ページ。結構な厚さだ。
厚さのみではない。ここへ、さらに著者独特の“コンセプトワード”が加わってくる。それを説明するとこの本のおおよそが察せられる。<叡智を求める人>……「ホモ・サピーエンス」はご承知のようにラテン語だが、これを深く訳すると、こうなるという。
そして、この本自身が「叡智を求める人」に向かって書かれていて、バカは相手にしていない……と言っているように聞こえる。

<普遍語>……国家を跨がってその辺り一帯を覆う古くからある偉大な文明の言葉。かつてのラテン語アラビア語、漢文……など。多くは<聖なる言葉>……つまり「聖書」として流通した。そして今の世界での英語。


<現地語>……人々がチマタで使う言語。俗語。多くの場合、母語。例えば平安時代のひらがなや、近代以前のヨーロッパのほとんどの言語。

<国語>……「普遍語」で説明された概念が「現地語」へ翻訳され、言語的に進化したもの。グーテンベルグ活版印刷ラテン語の聖書のみならず「現地語」の聖書も印刷するようになり、それが「国語」となるきっかけを作り、「普遍語」と同じ機能を果たすようになった言語。
二重言語者>……バイリンガルだが、「普遍語」+「国語」という組み合わせをいう。かってのヨーロッパの知識人というのは「二重言語者」であり、「二重言語者」が知識階級たり得た。

<読まれるべき言葉>……「叡智を求める人」が求める「読まれるべき言葉」は「二重言語者」だけが出入りをゆるされた<図書館>のアーカイブでその<テキスト>に直接接触することができる。( “一重言語者”は国語に翻訳された<テキストブック>に触るだけだ。)


そして、著者なりの「日本語が亡びないため」の対案は……?

“インターネット時代に入り、英語がますます「普遍語」の地位を高めている。それに反して、日本人の英語力の乏しさは外交などの分野にも良からぬ影響が出てきている。だからと言って、国民が総出で「二重言語者」になればいいわけでもない。その能力の高い者がその任に着けばいい。残りの人間は「国語」を一生懸命やる。近世文学もスムースに読みこなせるようになるべきだ。そこに「読まれるべき言葉」があり、そうしている間は「日本語は亡びない」。”

この要約した七行の結論に辿り着くまでに“万里の長城”の上のうねった回廊を延々と歩かされた気がする。


冒頭からしばらくは自叙伝風にはじまる。そして、エッセイとつかず評論ともつかずと……続いていく。著者の信じるところが繰り返し繰り返し何度も出てきて相当に食傷気味にはなる。
この著者の他の作品は知らないが、これを読む限りでは、一種の“悪文”に映る。もっと言うべき事を整理すれば、ページ数はこの半分には圧縮出来る。
私自身の関心領域だからこそ、それでも隠忍自重して読み通せたのかなと思っている。



……とは言っても、いくつかの印象的かつ啓蒙的なフレーズに会えた。

●……スコラ派の天動説に矛盾を見出したコペルニクス。かれが唱えた地動説は「コペルニクス的転回」という表現にあるように、人類のもっとも大きな発見の一つである。そのコペルニクスは今のポーランドに生まれた。数年後、ガリレオが、望遠鏡を使ってコペルニクスの地動説の正しさを確証するが、ガリレオは、コペルニクスの故郷ポーランドを遠く離れた、今のイタリアに生まれた。またガリレオを擁護した同時代人のケプラーは、今のドイツに生まれた。さらに数十年後、ニュートンガリレオケプラーに数学的な証明を与えるが、ニュートンは海向うのイギリスで生まれた。コペルニクスガリレオケプラーニュートンという近代科学が辿ったもっとも重要な道のりは、ポーランド、イタリア、ドイツ、イギリスとヨーロッパ全土を大きく忙しく駆けめぐる道のりだったのである。そして、かれらはみなラテン語で書いた。


認識というものはしばしば途方もなく遅れて訪れる。きっかけとなった出来事や、会話、あるいは光景などから、何日、何年ー場合によっては何十年もたってから、ようやく人の心を訪れる。人には、知らないうちに植えつけらた思いこみというものがあり、それが、<真理>を見るのを阻むからである。人は思いこみによって考えるのを停止する。たとえ< 真理>を垣間見る機会を与えられても、思いこみによって見えない。しかもなかなかその思いこみを捨てられない。<真理>というものは、時が熟し、その思いこみをようやく捨てることができたとき、はじめてその姿ー<真理>のみがもちうる、単純で、無理も矛盾もない、美しくもあれば冷酷でもある、その姿を現わすのである。そして、そのとき人は、自分がほんとうは常にその<真理>を知っていたことさえも知るのである。

●真理は文体に宿る。

●思うに、自動翻訳による翻訳は、いくら技術が進歩しようと、まず原理的に不可能である。たとえば、ある文章が言っていることと、その文章が意味していることの違いというもの(saying one thing and meaming another)は、すべての言語の本質にある、言葉の修辞学的機能から生まれる。そして、書いた人間の意図と無関係に言葉だけを解読する自動翻訳機では、その言葉の修辞学的機能というものを理解することが不可能である。……
もちろん自動翻訳機で翻訳された文章は読む快楽を与えない。そして読む快楽を与えない文章は文章ではない。


(完)