この世の中には二種類の人間がいる。“自分の国でしか暮らしたことがない人“と“自分の国以外の国で暮らしたことがある人“と……


「4社転職した経験からいいますと、その全てで“社会人としての常識”は互換性がありませんでした」

twitterで読んだ呟き……

つまり、アレだ。不滅の定理。
—「我が社の常識、世間の非常識」。

(“我が社“の所へ自分の会社名とか組織名を入れてみればいい。伝統とか慣習って大概一般性はない。)

その近くにあった別の呟きでも……

「ひとつの業界しか知らない人ほど『社会人としての常識』にうるさい。複数の業界を見てきた人は『社会人としての常識』が業界どころか、多くは企業内ローカルルールに過ぎないということを嫌というほど見てしまうから、恥ずかしくて『これくらい社会人として常識だろ』なんていえない」


これは日本の社会に連綿としてある“族”化現象、“団”化現象、“結社”化現象なんじゃないかと思う。

これに連関していると思うのだが、友人がぼそっと呟いた言葉を思い出す。


「この世の中には二種類の人間がいる。“自分の国でしか暮らしたことがない人“と“自分の国以外の国で暮らしたことがある人“と……」

これを大声で言い立てるのは憚かるところがあるし、多少の勇気もいる。なのに。顰蹙を顧みず思い切って言ってしまっちゃった。
実際のところ、その友人みたいな経験者たちとは密かにその話をしたことはある。たとえ初対面の人であっても、多くは話をしないのに、阿吽の呼吸のような感じで互いにoverseasだったのねって分かってしまう。


ジマーマン(横に叩いても縦に叩いてもドイツ系ジューイッシュの名前なのだが……)というアメリカ人の若い女性としばらくの間、お茶やランチをすることが続いた。コーネル大学の才媛であった。大学院生でインターン生として会社に来ていた。
彼女の関心の在りどころを訊いたら、「坪庭(壺庭)」と答えた。さすがに不意を衝かれたが、たまたま作庭関連の本を読んだばかりのところだったので、たたらを踏みながらも危うく受太刀はできた。




その彼女にプライベートな友達のことを訊いた。

「女性の友人は同じアメリカ人だけど、男性の友達にはアメリカ人はいないわ」
「なぜ?」
「日本に来ているアメリカ人の男って変なのばっかり。ビジネスマンでもそれ以外でも。そんな屈折したのと付き合うのは疲れるの」
「分かる気がする」
「だから、男の友達は100%日本人なの。でもそれには条件があって、外国で暮らしたことがある人ね。少なくとも、英語とか外国語を話すことができる人……」

痛痒いほどに分かった。
念のために言い添えると、彼女はコーネルの日本語学科を出ていて、日本語はほとんど問題ない。そうだとしても、ドメスティックな日本人にはコミュニケーションの綾の部分の理解で困難を感じるということらしい。
異文化への価値観や世界観へのアクセプタンス(受容性)の不足が同じ地平に立たせてくれないことを言っていた。
それは尤もだ。同じ日本人同士でも異なる文化背景を持っていれば、悲劇的にコミュニケーションが成立しない。ましてや、異なる文明の中で育ってきた互いであれば、共通の踏み台がなければ絶望的である。


最近よく目にする、……美味しいものを食べたり、美しい風景やいい話に出会って……

「日本人に生まれてよかった」
「日本ならではのおもてなし」
「生まれついて優れた日本人」……etc.



あのね、キミね、世界中の人々、国々を全部知っているのかい?ただのイナカモンだろっ、ソレって?夜郎自大になっているだけなんだろう?



「自分が属する民族は偉い。頭がいい。進んでいる。徳が高い上、外見まで素敵だ。それに比べてアイツらときたら、どうしようもない馬鹿だ。遅れている。品性が卑しい。おまけにかっこう悪い」

……という思考法に陥るのを「エスノセントリズム」という。

前述したことが同じ国の中で起きる現象だとしたら、「エスノセントリズム」というのはサーベル・タイガーの剣歯がそうであるように“定向進化”(いったん進化の方向が定まると持ち主の意思は関係なくそのこと自体が勝手に進化する)して国家とか民族レベルへと肥大化してしまった宗教のごときもの。それが“日本は素晴らしい“音頭だ。
サーベル・タイガーの牙はどんどん伸びてついには腹を突き破り絶滅したんだよ。日本教の人たち大丈夫?



それから5年後くらいかな、LAの総領事館のガーデンパーティでジマーマンにばったり再会した。眩しい南カリフォルニアの太陽のもとでサングラスをしていたので、当初気がつかなかった。相変わらずの美人で、相変わらず背も高かった。
坪庭の本を出版したと言っていた。

(完)