ソーシャル・メディア

5年ほど前になる。歳の離れた若き友人(男)に勧められてmixiを始めた。それが全ての「はじまり」だった。そこの“日記”に今ここに書いているようなものを書き続けて、数えてみると370本になっていた。(それらを『宇宙の中心は勇気だ』part1と遡って秘かにタイトルしている)

そして、佐々木俊尚さんの『仕事をするのにオフイスはいらない』と『ネットがあれば履歴書はいらない』 などを立て続けに読んで、mixiを卒業する時だと悟った。一段上のステージに出るんだと……。

今年の春、iphoneを手に入れた。twitterを機動的にやりたかったというのが最大の理由であったのだが、今考えると相当に屈折・偏向している。 iPadも発売と同時に手に入った。“ノマド・ワーカー”としてのデバイスは整ってきた。そして、10月にはこの「はてなダイヤリー」のblogを開始した。

こう書くと着々&ひたひたと進捗したように聞こえるが、全くの正反対。手練れのアドバイスを求めたり、web上の心優しい助言に縋り付いたり右往左往、あちこちに頭をぶっつけ、殴られ、頬骨が陥没したりの大わらわ……。いまだに、ちょっとした風の音にも怯える日々を送っている。


そうこうしてるうちに、ここしばらく「ソーシャル・メディア」という言葉が煩く飛び交うようになってきた。これで熱弁を振るっている人には「ソーシャル・メディアってな〜に?」って必ず訊ねるようにしている。人によってニュアンスとか範囲がさまざまに千変万化するので、油断がならないからだ。

この専門用語は多分、従来の産業メディアとか伝統的メディアとの対比概念としてあるんだろうし、ウエブ2.0以降の普通一般の人たちが発信できるメディアという意味もあるんだろう。濃淡は問わず自分が何らかのかたちで触ってきた具体的なもので言えば…blog,twitter,facebook,SNS,youtube,tumblr,flickr,skype,ustream,bookmarker,Wikipedia,foursquare……などなどがその道具なんだろうなって思っている。

「ギョウテとはオレのことかとゲーテ言い」
という笑い話があるが、いつの間にやら自分の足を突っ込んでいたところが「ソーシャル」なんじゃらであったのか、ということになる。

それにしてもだ。そんなに口角泡を飛ばすほどのものなの?そんなに凄くて価値があるものなの?われわれの未来を決めていくほどの勢いあるものなのかっていう疑問がないわけではない。
「“社会的”メディア」という上段だか八双に構えた言葉に囚われているんじゃない?って思う。“社会正義”なんて言われると、なんだか恐縮しちゃって頭下げないわけにはイケナイような……。もっとナニゲに受け取っていいんじゃないのかなって。

明治の文明開化の頃、福沢諭吉がcompanyを「会社」と造語し、societyを「社会」と造語したというのは人口に膾炙したことではある。
societyも元来が仲間、友だちなどの人々の塊をいう。つまり……族、会派とか党派や協会などからはじまり、最もサイズが大きい抽象概念の「社会」という意味まで守備範囲は広い。(ロスアンジェルスIBAという放送広告賞の母体機関はHollywood Radio & Television Sociatyと称しているのもその一例)
さらにsocietyの形容詞のsocialにいたっては、「社交的」「愛想がいい」という意味の方に重心が移っている。

だから、「ソーシャル・メディア」と言っても肩肘張らずに素直に「社交メディア」という理解でいいんじゃないのかって思う。ムリクリ「社会」全体を視座に置かなくたっていいんだ。つまりは、“浮き世のご縁”というか……。

しかしながらである。
最初のはじまりがそうであったとしても、そこにへばり付き留まっていると、物事を矮小化して偏光グラスで見ていることになりそうだと思ってきた。

【A】それこそWikipedia(英語版)で“social media”を検索してそっと覗いてみた。examplesの項目を見て唸ってしまう。今まで聞いたことのないものたちが轡を並べてぎっしりとゲイトインしている。明日のスターになることを夢見ているんだな……きっと。
ここいら辺にビジネスチャンスが転がっていると覚悟を決めている人が多いわけだから、ますますここには混み合ってくる。切磋琢磨も行われ優勝劣敗も行われる。

【B】話しのアングルが変わって。湯川鶴章さんのTechWaveに大学生の鎌田慎也さんが“デジタル・ネイティブ世代”に関しての書いている。その中で、……

「私の従兄弟は、まだ6歳ですが、YouTubeウルトラマンを見ています。タダで全シリーズが見れるそうです。これが彼にとっての当たり前です」

今や、6歳児の日常がこうか?!
iPhone,iPadを軽やかに使いこなす小学生も珍しくなく、中学生でカリスマのtwittererもいる。世紀は“デジタル・ネイティブ”たちが量産される直前の踊り場にいる。

つまり、上記の【A】:<利便性が高くクリエイティブでユニークな「ソーシャルメディア」の数々>と【B】:<デジタル・ネイティブの生まれつきの才能>が掛け算になった時に、Sociaty(世界・世間)にどうドライブを掛けるのか? その変容が逆に人々をどのように変化させるのか?どれほどのスピードで、どこへ行こうとしているのか?
……われわれの世代のデジタル・リタラシーでは予測がつけようがないってことだけは明確である。

“social media”周りでも編集とかキュレーションを言い立てる人はいる。でも、そんなことはボリューム的にもスピード的にもどうしたって間に合ってこない。
この“social media”を「複雑系」と仮定するならば、美しい“自己組織化”がキュレーションというターミノロジィで実現してくることを願いたいところだ。

いずれにしても、「ソーシャル・メディア」の未来は現在もそうであるように“未体験ゾーン”……だ。だから、誰でも予言者にはなれる。

(完)