帰化語


帰国子女の娘(こ)が「『communication』に対応する日本語って『コミュニケーション』以外にないんですか?」という切り口上の質問をしてきた。いかにも“リターニーちゃん”が言いそうなこと。マ、敢えて言えば、「伝達」とか「通信」だよと答えたものの、何だか建て付けの悪い襖をガタガタ閉めたようで落ち着かない。

ボクの感じで言えば、アメリカ人が使う“communication”って乾いている。つまりハード寄りなんだ。communicationsと複数形にした日にはモロ、通信とか電話の通信機関という物理的かつ具体的になる。日本人が“コミュニケーション”って使う時には「伝え合う」とか「分かり合う」というようなジメッと湿気を帯び、ソフト寄りぽくなる。どう間違っても、機関とか施設というイメージを負託させない。英語には含まれている形而下のものは拭われたようにさっぱりとないのだ。

原語の英語vsカタカナ英語(=日本語)との間に齟齬というかズレが生じてきているということはよくある。日本語のなかに参入されて、それはそれで日本語として逞しくタフに生きていくのは大いに結構。
だが、「コミュニケーション」は「コミュニケーション」であり、communicationとは必ずしも重なり合った同心円にはならんということを、日本語についてもハンチクな彼女に説明するには骨が折れる。

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天然自然にあるものにただ名付けした程度のヤマトコトバ(和語)だけの世界で生きていたヤマトの人に、大陸の中華文明から文字とともに支那語(漢語・漢文に代表される…)が渡ってきた。当時の日本人はこれらをヤマトコトバに置き換えることなしに(置き換えられなかったというのが正直なところだろうが……)、漢語に頼って語彙を拡大し消化することで対応した。当時の支配階級はこの巨大文明の最大の武器と言っていい「言語」に大いに魅了された。抽象概念や論理性、思想・宗教や哲学など知性を研磨できるメディアでありツールであったからに他ならない。

「民族の独自性とかアイデンティティを煮詰めに煮詰めたにこごりはつまるところ“ことば”になる」

司馬遼太郎さんが言うカンジンカナメのエキスのようなところをほとんど輸入に頼り、消化吸収し、開花させたのが我が民族の「文化」であり、アイデンティティではある。

だから、日本語の碩学大野晋さんをしてまで……

「遡って考えてみると、日本という国は、基本的な文明はすべて輸入品に頼って生きてきた国だ。1000年マネすることで国家をやってきた」

と慨嘆混じりに言わせしめている。それほど、ひたすらの文明輸入国。
(日本は自前の「文明」は持ったことはないという論があるが、確かにそうだろう。「文化」は育んできたとは思うが、他国の文化さえ呑み込むようなグローバルな「文明」は持ったことがない。開闢以来…・・・。)

帰化人」とか「渡来人」という言葉があるが、これらの文明は中国大陸や朝鮮半島からの“教養ある移民”の人たちが携えてきたものが多い。だから、漢文、漢語も“帰化語”といって差し支えはないだろう。(モチロン、学術用語としては成立していないが・・・・・・。)

そのようにやってきた千年後。鎖国までして“日本化”をまったりと熟成させてきたのに、“文明開化”により西洋からの激しい疾風怒濤が雪崩れか津波のように押し寄せた。
明治の知識人はヤマト以来永年培った漢学の広汎な教養と知識を駆使しながら、それまでの日本にはない概念・制度・ノウハウを表現するのに、“造語翻訳”とでもいうことを行った。つまり、それまで日本になかった概念とか価値観の日本への“帰化”を行ったと見ていい。つまり、「帰化日本語」「帰化語」の創造だと思う。
我々が漢熟語と思っている相当数の熟語がこの期間に積極的に創造されている。誠に驚くべきインテリジェンスとクリエイティビティである。

夏目漱石の造語>
「新陳代謝」「反射」「無意識」「価値」「電力」「肩がこる」「電光石火」
「ひどい」「浪漫(ロマン)」「沢山」「兎に角(とにかく)」「価値」

福澤諭吉の造語>
「自由」「経済」「演説」「討論」「競争」「文明開化」「共和政治」
「版権」「抑圧」「健康」「楽園」「鉄道」

漱石は小説の新文体のために、諭吉は文明開化のニューコンセプトのために……他にも、福地桜痴西周中江兆民緒方洪庵正岡子規たちの近代日本語への功績も大きいらしいのだ。

そして、第二次世界大戦の敗戦後。昭和の知識人は、明治の人のように造語してまでアメリカ語を国内に導入するのではなく、昔のヤマト人のように、そのままで日本語のなかへ“帰化”させた。つまり、カタカナ表記による「帰化語」の凄ましい生産である。明治人のような想像力も創造性も必要ない。オートメーション的量産である。そして、日本語の語彙数は怖ろしく跳ね上がった。

「英語は海。世界中の言葉が流れこんでくる」
と言われる英語。この言語自体が多種民族の歴史を持っているがため、100万語以上という地球最大の語彙数を誇るが、日本語も50万語くらいにはなるらしいから、地球上で2番目なんだろう。ドイツ語が18万語くらいでフランス語は10万語に満たない語彙数と言われているが、それらに比較すると相当に圧倒している。

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それが、最近はもっと踏み込んで来ている・・・否、踏み込まれているのかなって思う。
少し前からIT関連の分野で、カタカナ表記にさえせずに英語スペルのマンマが蔓延し始めている。
そんな専門業界のみならず、一般人の範疇のiPhone,iPadや「ソーシャル・メディア」系統の…blog,twitter,facebook,SNS,youtube,tumblr,flickr,skype,ustream,bookmarker,Wikipedia,foursquare……などが英語表記のままで日本語のなかを、グイグイと流通し始めているのは、何かのシンドロームなのかしら?・・・・・・いよいよもって、日本語のなかにナマの英単語が混入してくる予兆?・・・・・・日本名を名乗らずにオリジンの言語の名前のままでの“帰化”が始まっているかのように見える。

「…動詞さえ日本語であることを堅持しておけば、名詞などが外国語になっても大丈夫…」
って国語学者だか作家が言っていたが、「コピペする」とか「DLする」「defragする」のような<(英語)+する>って日本語の動詞なのかしら?これで日本語動詞として、日本語を守備する橋頭堡たり得ているのだろうか?

いずれにしても、「美しい日本語」などという世迷い言はいうまい。いつも揺れ動き、激しく動悸し、荒く呼吸しながら、今現在を活き活きと躍動している日本語こそが「美しい」と思っている。
驚嘆すべき造語能力、増殖能力や帰化能力を持ち、豊饒な言語になっていく「日本語」をただただ頼もしく見上げている。

(完)