人間「自分が生きたように考える」

紀元前2800年前のアッシリアの粘土板を苦心惨憺で解読した。そうしたら、何のことはない「最近の若者はなっていない」と書いてあったという話しがある。
これを読んだときには、“ふ〜ん!人とはしょうがねーもんだな”って思ったのだが、どうやら、これは“都市伝説”の一種らしい。(……エジプトだ、メソポタミアだの説も虚実とりまぜさまざまあるのだが・・・)
しかし、都市伝説として流通するからには人の心の琴線に触れるものがあるからなのだろうと思う。少なくともボク自身は、この“伝説”で3000年も前から言われている詮ない情けないことは決して言うまいと誓って今日まで来ている。

「最近の若者は、なんだ。目上の者を尊敬せず、親に反抗。法律は無視。妄想にふけって街で暴れる。道徳心のかけらもない。このままだと、どうなる」
って言ったのは誰だと思う?
これは紀元前800年の哲学者のプラトンの言葉だ。
アリストテレスも同様なことを言っているが・・・・・・)

つい最近のイシューでは、建築家・安藤忠雄氏が

「80年以降に生まれた若者はダメ」
「70、80の老人が引退したら日本は困る」

などと講演で力説していることであろう。

どうしたものだろう?何が起こったのだ彼に?
6回戦ボクサーから身を起こし、建築の正規教育は受けずに国際的に有名な日本を代表する建築家になった彼が。ここまで来るには既成の権威とずっと闘い続けてきたはずなのに。ずっと“若き”挑戦者でありつづけ来たのに……。
その彼が、3000年ほど前から年寄りが若者にいう手垢にまみれた定番の小言をジクジク言ってどうする。
安藤さんの物言いは若者に対しての煽りなんだろうけど、でもどう考えても若者に社会的なベット(賭け金)を張った方がいいに決まっている。人類は自らの社会の発展にいつもそうして来たんじゃないの?歯車を逆に回して、後戻りしてどうする?

そんなときにこそ、フランスの詩人・批評家・作家のポール・ブールジェの言葉が静かに響く。

「自分が考えた通りに生きなさい。そうじゃないと、自分が生きたように考えてしまう」
これは「一度だけの人生なのだから、他人に流されず自分らしく生きなさい」という主旨に続く。これは誰でも言いそうだし、どうでもいい。ボクにガツン!と来たのは後半のフレーズである。

「自分が生きたように考える」
年寄りという呼称が悪ければ、シニア。シニアはほとんどがそうなんだ。自分の経験だけが金科玉条。若者(ジュニア)をいつもオノレの経験だけで裁く。新たな価値のプロジェクトにも旧守な経験則を持ち出す。もう使い物にならない指標なのに。

シニアが自戒するべきは自分自身の経験のくびきからいかにfreeになれるかということと、ジュニアの才能・努力が発揮されやすい状況をインキュべート(孵卵)しサポートすることじゃないのか?


ある時酒の席で、永年の友人が、

「最近の若い者は言葉使いがなっていない。だから、子殺し・親殺しが多いんだ!」

・・・ってまるっきり論理的に破綻した偏った感情論を言った。ほとんどがイイガカリだ。

「言葉使いなんぞとはからっきし関係はない。子殺し親殺しなんてものはいつの時代にもあったんだよ。それを言うなら、30年代の方が言葉使いとやらも、キミの審美眼にかなうほどに美しかったはずだが、子殺し・親殺しは今よりも遙かに多かったのはどうする?」
と即座に踏みつぶしておいた。
彼の“老い”を痛切に感じた瞬間だった。

そのシニアの足元も危うい。佐々木俊尚さんがtwitterで最近のシニア世代が社会的マナーを守らないのは若者の比ではないことに驚き、日本はもはや壊れているのか?と慨嘆していた。ジュニアの事をメクジラ立てるヒマなんかあるのか?

冒頭のアッシリアの粘土板には次の事は書いてあることは確認されている。

「世も末だ。未来は明るくない。賄賂や不正の横行は目にあまる」
3000年も経っているのに、な〜んにも変わっちゃいない。
人間の業(ごう)は深い。
うむ。

(完)