困ったオジさん

終電にはまだ間がある各駅停車。小田急線は先ほど成城学園を出たはずだ。社内はガラガラ。ぼぅ〜としている。考えることも何もしていない。ただただ放心。と、斜め前に座っていたオジさんが急に立ち上がり、ドアの前まで来た。バーにつかまりながら、右の足を曲げて自分の尻の方に持ち上げる。次いで、左の足でも同じことをやる。

  (なんじゃ、こんなところでトレーニングかよ……)

 そのウチに左の手で股間を押している。次に右手でもポケットにいれてまま、大事なところを触っている……らしい。 どうみても、オシッコを我慢している図である。 子供ならともかく、頭のてっぺんがツルツルでほとんどないが、それほど老人ともいえない立派な大人が、こんなに分かり易いしぐさをするのも初めてみたなァと、呆れて眺めていた。 電車は次の駅に近づいたらしく、減速してきた。

  (よかったね、もうすぐだよオジさん)

 ドアがコンプレッサーの音とともにガッと開いた。でも、オジサンは降りないままで、虚しく再びドアは閉まった。

  (どうしたんだ。次か?漏れそうならとりあえずここで降りて、用をたして……というのもあるじゃないの?)

 オジサン今度は、ドア付近の上部にある吊革に両手でぶら下がっている。そこでさっきからの右足と左足の交互屈伸をした後、両足をフロアーに固定したまま、腰を前後もしくはグラインドさせることもはじめた。それを、アメリカのストリップバーの踊り子のようにユラユラクネクネと繰り返す。 随分と尿意が高まっているようだ。誰がみても、そう思えるはずだ。

  (早く次の駅につかないかなァ……)

 とこちらの気持ちはオジサンの感情に思いっきり移入してしまっている。いつのまにか、こちらが貧乏ゆすりをはじめている。

(こらっ。なんでオレがこんなことせにゃならんのだ。オマエさんのために……ったく)

電車はまた駅に着いた。オジサンはガンとして降りない。電車はまた次に向かう。オジサンは屈伸からグラインドまでのフルメニューをこなしながら我慢に我慢を重ねている。

  (ここで事切れたらどうしよう。ベージュの綿パンのソコにみるみるうちにシミが広がり、ズボンの裾から床にオシッコがボタボタ落ちておぞましい姿になったとき、観客…・・・いや乗客のオレはどう振舞えばいいんだ?車掌とか鉄道公安官に通報するのか?それとも何食わぬ顔でトンズラか?)

 とんでもないことになった。自宅の駅まで心安らかに、うつらうつらしながら各駅停車でのんびり帰ろうしていたのに、目の前に突然“爆弾”を抱えてしまった。いつ破裂、破水するかわからんカタストロフィと一緒の道行のサスペンス劇場になってしまった。

 電車は多摩川も越え、神奈川県に入っている。相変わらずのオジさん……体のどこかが静止している瞬間はひとつもない。屈伸とクネクネに加えて、行ったり来たりのシックな檻のクマのような動きまでインサートしてきての大忙しだ。

  (いよいよ「すわ鎌倉!」じゃないのか。どこでもいいから降りろよ!降りてくれ!大事にならんうちにさ。ね、お願いだよ)

読売ランド駅だ。ドアが開くと同時に遂にオジさんがサッとホームに降り立ち、脱兎の如くトイレに向かって走る。ひた走る。ここはホームの真ん中あたりにトイレがある。オジさんはこれを計算していたらしい。

(“読売ランドのホーム中程のトイレ”と苔の一念かァ?もっと臨機応変でやってくれなくちゃ、みんなが困るんだよ)

 とにかく、やっとのことでハラハラキドキのスリルとサスペンスは終わった。ボクはどっと疲れが出て、シートに倒れこんだ。