イジメ問題

大津の事件に絡んで、「イジメ」に関しての論議が盛んである。皮肉で言えば何回目かの“ブーム”だ。だが、「イジメは決して許されない」とか「他人を思いやる心」という類の言葉には違和感だけでなく脱力感を感じる。そんなことでイジメがなくなるのなら誰も苦労はしない。

心でっかちな日本人』という新たなパースペクティブを提供してくれたすばらしい本がある。著したのは北大名誉教授・山岸俊男さんである。
“心でっかち”とは“頭でっかち”からの造語だが、日本の社会とか文化を解く重要なキーワードを提示してくれたと思っている。つまり、心の持ち方さえ変えればすべての問題が解決できると考える「精神主義」をその極端な例とする。(かつて我々の先輩は竹槍で米軍のB29を撃ち落とせると信じた……)
この本のなかに「イジメ問題」のフィールドサーベイがある。
山岸さんはこの問題を「頻度依存行動」と「相補均衡」という専門用語を使って説明してくれている。「頻度依存行動」とは“赤信号みんなで渡れば怖くない”のような例で、自分の行動が他人の行動に依存していることを指し、そのことで齎される危うい均衡を「相補均衡」と称している。
具体的にいこう。32人のクラス。「イジメ」のボスが1人、イジメを受けているのが1人。30名の多くは心のなかでイジメをやめさせたいと思っているが、「イジメ」をやめさせる明確な行動に出るか、逆にその「イジメ」の対象にならないために「イジメ」に参加するかという判断をいつも迫られている。“何人加勢してくれたら、イジメを阻止できるか”ということだ。つまり、“不利益を被らないで成果を手に入れれるのは?”というトレードオフという折り合いのところが悩ましいわけだ。
仮に、阻止派が少数のままでは、たちどころにイジメの対象になりイジメを受けるか、さもなくば「たった一人の反乱」で自衛策を取らざるを得なくなる。(http://text.ssig33.com/110

通常のクラスであればイジメ阻止側に14人が参加すれば、キャズムを超えてイジメは収束に向かうとされている。
しかしここで重要なのは担任の先生だ。イジメを阻止することに熱心で且つそのことを明言している“熱血先生”の場合は、9名程度の阻止グループでイジメは終息する。逆に、“頼りがない先生”の場合は25名くらいの阻止グループが作られなければ終息に向かわないということになった。先生の熱意と質により「頻度依存行動」が変化し「相補均衡」も激変する。
だから、とてもはっきり言えば、「イジメ」の存続と阻止いうのは、多少の変数はあっても、担任の先生の熱意と質に依っていると言っていいのだ。
ここで面白いのは、阻止行動に参加する最大が、当事者を除いた30名中27名であること。残った3名は「イジメを悪いことだと思っていないし、場合によってはそれを楽しんでいる」生徒だとしている。

これを大津ケースと重ね合わせにすると、あまりの符合に驚く。いくじなしの担任。イジメグループのA、B、C。


別の本では、クラスのなかには“職業的&愉悦的”「イジメ屋」が1〜3名は存在するのが通常とし、経験的データによれば、これらの者たちの矯正はほとんど不可能であるという。
(この8歳の子が4年後には“いい子”になっているとは到底想像できない……。「子犬に石http://copipe.cureblack.com/c/34023
我々の小中高時代を振り返ってみれば、そうだったなと納得はできる。だから、イジメというのは連綿としてずっとあり続けたものだろうし、ここに来て急に“凶悪化”したわけでもないだろうが、気分的には、タチが悪くなっているんじゃないのかという疑いはある。

気分ついでに言えば、「イジメ」という言葉で十把一絡げにするのはそろそろ違うのじゃないかって思う。少年のお面を被った大人の犯罪じゃないのかって思う。
そこで、現役の弁護士である大達一賢さんに“あれは立派な犯罪でしょ?”とその辺りを聞いてみたら、とても丁寧な解説をして貰えた。

……私はアンケート資料等を観たわけではないので、あくまでマスコミ報道されている事実関係を前提として。

①被害者の身体に有形力を加えていたという点について
 暴行罪(刑法208条)に該当し、それに傷害が伴えば、傷害罪(刑法204条)に該当しえます。また、意に反することを強要したという点で強要罪(刑法223条)に該当しうると言えるでしょう。
 一部マスコミ報道で触れられていますが、自殺教唆罪(刑法202条)については該当性について意見が分かれるところだと思います。「自殺の練習」を始めとする連日のイジメ行為と自殺との法的な意味での因果関係の有無が問題になるからです。
 ここで、因果関係には諸説ありますが、現在では相当因果関係説と呼ばれる説が通説と言われています。すなわち、この実行行為からこの結果が発生することが、社会通念上相当といえるかどうかという見地より判断するという見解です。そして、その相当性の判断基礎として考慮すべき事情としては、一般人が認識し得た事情のいならず行為者が認識していた事情をも含めるべきとする考え方が有力とされています。本件でいえば、いわゆるイジメ行為が、一般人が認識しえた事情からすれば自殺するだろうということに加えて、行為者たる加害生徒が認識していた事情からすれば自殺するだろうと思われるような場合であれば、自殺教唆罪の成立を肯定できるでしょう。
 なお、より踏み込んだ意見として、マスコミで報道されているような凄惨なイジメが事実であれば、本人が自殺をすることを利用した殺人罪の間接正犯とも言いうるのではないかと個人的には考えています。すなわち、自殺の練習をさせることは、自殺を強制することに外ならないのではないか、ということです。この点に関し、広島高等裁判所判決S29.6.30は「犯人が威迫によって他人を自殺するに至らしめた場合に、自殺の決意が自殺者の自由意思によるときは自殺教唆罪を構成し、すすんで自殺者の意思決定の自由を失わしめる程度の威迫を加えて自殺せしめたときは、もはや自殺関与罪ではなく殺人罪をもって論ずべきである」と断じておりますが、本件でも日常の凄惨なイジメと自殺の練習に代表される自殺強要行為によって、被害生徒が自殺以外の選択肢がないというところまで精神的に追い詰められていたのだとすれば、本件でも殺人罪の間接正犯を論ずる余地があると思います。最終的な結論は細かい事実関係を考察しないとわからないので、自殺教唆と殺人罪間接正犯とどちらの適用が適切なのかはここでは結論を出せませんが。

②有形力の行使以外の場面について
 無形力の行使、つまり言葉の暴力や無視など手を挙げる以外の方法によるイジメの場面です。有形力の行使の際には暴行罪の成立が問題となりますが、無形力行使の場面では脅迫罪(刑法222条)が成立しえるでしょう。この脅迫が度を越して精神的な病を引き起こすような事態にいたれば、無形力の行使を実行行為とする傷害罪の成立もありえると思います。無形力の行使のみで殺人罪の成立を論ずるのは難しいとは思いますが、自殺教唆自体は脅迫を手段とする場合も成立しうるので、自殺教唆罪の成立の可能性もあります。

③金銭を奪取していた点について
 金銭の奪取が、被害者本人がまったく預かり知らないところで行われていた場合には窃盗罪ですが、被害者本人に対する暴行脅迫が行われていた場合には恐喝罪(刑法249条)が成立しえます。恐喝罪を通り越して強盗罪が成立するには、被害者が反抗する気持ちを失わせる程度の暴行脅迫が必要になりますが、本件でもそのような暴行脅迫があり、実際に反抗を抑圧されて金品を奪われていたと認定されれば強盗罪の成立の余地も出てくるでしょう。

④民事的な責任について
 民事的な責任としては、不法行為に基づく損害賠償請求権として、被害者本人の請求権を相続人である親が相続して行使する場面のみならず、被害者の親自身の慰謝料請求権も成立しえます(民法709条乃至711条)。
 上記の損害賠償請求の相手方は加害者の生徒たち本人に対するもので、加害者の生徒たちが未成年者であることから結果的に親がその責任を負わせるための条文としては責任能力がない者の監督者が責任を負うとする民法714条が存在しますが、中学生や高校生は責任能力がないとはいえないため、同条項の適用によっては直接的に親に対する損害賠償請求を行うことができません。他方、加害生徒たちは未成年であり、実質的に責任を負うことはできないので、これらの者に対する損害賠償請求権は有名無実化してしまう危険性があります。そのため、加害生徒の親に対しては、加害生徒に対する監視監督義務を怠ったことにより損害が発生したとして損害賠償請求をしていくことになるものと思われます。したがって、加害生徒たちは、民事責任の場面では、自分たちのみならず、自分の親をも巻き込んで法的責任を発生させることになるのです。

とにかく山盛り一杯の罪状なのだ。彼らは間違いなく犯罪者だ。さらに④に記載されているように加害者の少年の親も損害賠償の法的責任から逃れられない可能性は高い。
ただここで、「少年法」というショックアブソーバーのようなものがあるのだが、到底少年とは思えない犯罪に少年法適用というのはいかがなものだろうという強い疑問は個人的にはある。


それにしてもだ……。イジメは子供や少年の間だけではない。会社とか組織やグループ……大人のなかででも大いにある。大人がやっていて子供や少年・少女に“他人を思いやる心だ”なんていう説教は偽善もいいとこだ。おためごかしだ。
最近明るみになったの神奈川県警のセクハラ+イジメの複合形は一体どうしたことか?またウチウチの処分とか。これじゃ学校だって教育委員会だってウチウチの処分になる。

本当に日本も傷んできている。

(完)