ムーチョ・トラバホ!

ロスアンゼルスの夕方5時ころに東京は朝の9時見当になる。本社の人間の出社を待って電話を掛けるが、折悪しくいなかったりすると、東京の午後にその彼を捕まえる。それが終わるころにはもうLAの時間は夜の10時になっている。一人じゃなく複数にそれをやることが、まあ、日常的であった。
(1993年〜1995年の頃の話。今では携帯電話が普及しているので、コンタクトは随分と楽になっているはずだ。)

夜も10時過ぎになると、ジャニター(掃除人)が会社中のロックを開けて、大型の掃除機をガーガー言わせながら部屋に入ってくる。顔馴染みのベネズェラ人のカルロスだ。この出稼ぎの彼はほとんど英語がダメだった。(出稼ぎということでは我が方も全く同じなんだけど……)

「ムーチョ・トラバホ!」

と彼は声を掛けながらん入室してくる。ムーチョは “沢山の”という意味で、トラバホは“労働”という意味であることは知っている。「働き過ぎだね」って意味になるが、まあ、「今日も大変だね」くらいの意味なんだろう。
こちらも同じく……

「ムーチョ・トラバホ!」

と返す。「お前さんもこんな夜中に大変だね。国元への送金とか大変だろ?」くらいの意味を込めている。

こちらのスペイン語ボキャブラリーも昔のスパニッシュ・ミュージックの「ベサメムーチョ」「キサスキサス」「ラ・パロマ」ぐらいが精々のところ。かつてはスペインの領土であったカリフォニアは通りの名はスペインの名前は多いのだが……ただそれだけのこと。
もう何ヵ月も彼とのコミュニケーションはただひたすらに「ムーチョ・トラバホ」だけだ。つまり、この「ムーチョ・トラバホ」という言葉がまるで“針穴写真機”の針穴のように、二人の感情がその微小な穴を通じて増幅し行き交うようになっていた。

そのうちに、「オルケスタ・デ・ラ・ルス」の単語も混ぜるようになった。この“光の楽団”というのは日本人が結成したサルサのバンドで、その頃ビルボード誌のラテン・チャートで11週に渡って1位を獲得したりしていた。

とりわけこのロスアンゼルスではヒスパニック系住民が半数に迫っていて(非ヒスパニック系白人は30%に満たない)、彼らの間で「オルケスタ・デ・ラ・ルス」を知らない人はいなかった。日本人のバンドだということも有名であった。彼との間でのもう一つの共通言語にはなった。



針穴は2つになった。「ムーチョ・トラバホ」と「デ・ラ・ルス」。
この針穴をどんどん増やして行くことが、国際交流ということなんだろう。

(完)