靄気(あいき)


外国のキャリアから久し振りに日本のエアラインに乗ったときに彼らフライト・アテンダントのサービスにちょっとした違和感がある。
え〜と……。湿気がたっぷり含んでじっとりした……何か……。打ち払っても払いのけてもまといついてくる東南アジアモンスーンの高温多湿な空気を感じる。


海外(多分スペインだったと思う……)で長く活躍していた女流の画家が久し振りに日本に帰ってきて、
「いいとか悪いとかということではなく、日本の画家の絵にはすべて靄(もや)が掛かっている」
といったそうだ。

これは多分司馬遼太郎さんの随筆で読んだのだと思うのだが、当の司馬さんも自らの随筆『春灯雑記』の「あとがき」に……
「 春のともしびは、靄気(あいき)に滲んで、輪郭がぼやけている。この本も およそそんなものだと おもってくだされば、気が楽である」
と記している。


そうなのだ。“靄が掛かる”のは絵画だけではない。日本の小説にも詩にも演劇にも映画にも……。コミュニケーションの取り方や人との接触や接遇にも靄は掛かる。
「和気藹々(わきあいあい)」という言葉があるが、「和気靄々」と書いても間違いではない。輪郭がはっきりしない湿りっ気のある靄(もや)が重要なのだ、この国では……。
だから、フライト・アテンダントの応接にも、“靄気(あいき)に滲んだ”ものを感じてしまうのはあながち間違いではない。


絵画の範疇でいえば、まったく逆の事をバルセロナの「ミロ美術館」で感じた。そのときはたまたまなのか、この美術館の二階に続くバルコニーがあり、その乾いた空気のなか……太陽がぎらぎらと照りつける元で一枚のミロの絵が展示されていた。弾けるように色彩が四方八方に乱舞して大きく息づいていて、ちょっとの間、立ちすくんでしまうほどの官能であった。それまでは正直言ってちょっと舐めていた彼の作品が全く面変わりしていた。日本の靄が滲んだ空気の中では表現されていなかったはずのものがその環境のなかではとても鮮やかに訴えていた。


至極当たり前の事ながら、アメリカのエアラインは彼らのフライト・アテンダントが彼らの文明が装備しているserviceとかhospitality、entertainを客に供することを期待している。
勿論、日本のエアラインはそれら横文字のものではなく「もてなし」や「心配り」を客に提供することを思い描いている。

ちょっと前、Facebookで話題になったものにこういうのがある。

アメリカの国内のエアライン。50歳がらみの白人女性が……
「隣が黒人だなんて、どういうことなの?席を替えてよ!」
とキィキィとヒステリー状態。フライト・アテンダントは、
「席替えしたくとも、ただ今エコノミーは満席です……しばらくお待ちください。善処しますから……」
ややあって戻って来たFA。
「ファースト・クラスに空席がありましたので、いまからご案内します。いえ、あなたではなく隣の男性へです」
(その男性へ)
「よろしければ、お移り願えますか?お荷物お忘れないように……」
(周りから万雷の拍手……)

これはよく作られた話かも知れない。だとしても、日本のCA(キャビン・アテンダント)には絶対真似のできない芸当ではないかと思う。
依って来るところは、アメリカのフライト・アテンダントの“個”のフィロソフィーの持ち方が大きいのではないのかなって思う。会社のマニュアルはマニュアルとして、時にはオノレの信条の方がより重要であったりする。つまり彼らが命の次に大切にするindependency(独立、独立心)が大きく裏打ちしている。

一方のエアラインが“お客様は須く神様です”とムリヤリ押し込んでいるのに、他方のエアラインが“神様ではない客も結構いる”と思っている認識の差が大きいのかも知れない。“下卑た”客にまで“滅私奉公”などすることはないと……。

(完)