プッタネスカ(娼婦風)

学生時代、ルームシェアしていた男が痔の手術をしてヒーヒー言って寝ているので、「よしメシ作ってやる」といってちらし寿司を作ってやったことがある。門前の小僧等というヤツね。母親のやるのを見ていて自然に覚えてしまっていたんだね。その友人は会えばいまでもそのときの礼をいう。

それ以来、ほとんど料理はしない。が、最近スパゲティーだけは作る。それも大概は「プッタネスカ」だ。その「プッタネスカ(puttanesca)」とはイタリア語で「娼婦の」という意味を持つ。<「娼婦」をイタリア語では「puttana(プッターナ)」というらしく、その形容詞形ということだ。>
つまり、食べ物で「娼婦風」というのが意表を衝いておもしろいって思うワケだ。

オリーブオイル、ニンニク、赤唐辛子、ケイパー、コショウ、オリーブ、ホールトマト、アンチョビ……それにありあわせの野菜があればどんどん突っ込む。

スパゲティーといえばトウガラシはなくてはならないもの。
奴隷貿易などをやっていたいっぱしのワルのイタリアンのコロンブスがなんとかかんとかスペイン女王のイサベルを口説き落として、資金を出させて西回り航路でインドに行かせて貰えたのは、一つは金、ついで胡椒が目的だと言われている。当時、オスマントルコが勃興しコンスタンティノープルが押さえられて、東周りは塞がれてしまったことにより、胡椒一粒と金一粒が同じ価値になっていた。
そして、今の西インド諸島あたりに着いたのだが、目当ての胡椒はない。(コロンブスは死ぬまで、そこはアジアだと思っていて“新大陸”だなんて露ほども思っていなかった。)そのかわりに、土地のインディアンが使っていたトウガラシをレッド・ペッパーとして持ち帰った。

本線に戻る。
パスタは本当言えば細いものが好きだ。LAにいたときには、「エンジェルヘアー」ばかり食していた。日本でもやや細いものを選んでいる。
友人から教わったことだが、パスタを茹でる2時間前から水に浸けておく。その彼は太目のペットボトルの頭の方を切断したものを器にして浸けていたが、我が方はたまたまガラスの長いビーカーのようなものがあったので、それをもっぱら使っている。
そうすると茹でるのはほんの5分ほどで済む。その上、パスタのモチモチ感が増してとてもおいしい。


パスタというか麺といえば、やはり故郷は中国だ。それがシルクロードを辿ってイタリアに入ったのはいつ頃なのだろうか?小麦粉系だけではない。スイスとの国境近くの山岳地帯ではソバ(ピッツォッケリというが……)まである。寒く、土地が痩せていて、小麦の栽培が困難だからだ。もちろん、パスタとして食べる。

閑話休題

とにかく、その茹であがったパスタを上記のものをオリーブオイルで炒めてあるフライパンにぶちまけて混ぜ込む。
これで出来上がり。







料理というのは何かを思い出しながら作るものらしい。私の場合は必ずといっていいほど、村上春樹を思い出す。彼の短編集で『カンガルー日和』という奇妙なタイトルのものがあるが、それに収録されている『スパゲティーの一年』のなかの一節。

春、夏、秋、冬と僕はスパゲティーを茹でつづけた。それはまるで何かへの復讐のようでもあった。裏切った恋人から送られた古い恋文の束を暖炉の火の中に滑り込ませる孤独な女のように、僕はスパゲティを茹でつづけた。


日本の作家には珍しいこの長い長いレトリック。これをスパゲティーを茹でる度に思い出す。

わがパートナーがこの辛さというものにからっきしダメだ。フライパンに入れるトウガラシは気持ちだけにしておいて、私は手作りの“タバスコ”をたっぷり振りかける。

ある心理学者がいっている。
私たちがトウガラシを求めるのは、「制約されたリスク」の一例だ。つまり、怖い映画を見たい、バンジージャンプをしてみたい、ジェットコースターに乗りたいという欲求と同じ。これらの行為は、実際には何の危険も伴わないにもかかわらず、アドレナリンによるスリルが得られるものである、と。
そうかも知れない。インド人とか四川省の人々はそうだろうな。
さらに別の心理学者がいう。
「トウガラシへの情熱は、われわれ人類に特有のものだ。タバスコを好んで食べる動物は、人間ぐらいだ」
(←手前が手作りの“タバスコ”)



食害されるのを防ぐためにトウガラシはカプサイシンを生成して守備を固めているのに、人間はその辛さを好んで食べてしまう。トウガラシの立場はどうなる?
人類。地球上で一番の悪食。

(完)