名前

かつて大宅壮一という評論家がいた。彼は昔から言う「名は体を表わす」ということは本当のことだ、と言っていた。
理由は、親は子供の名前をつけるときに死ぬほど考える。そして、つまりは自分の“想い”とか“願い”を名前にして子供に托す。そんな想いや願いの持ち主の親に育てられて大きくなるのだから、それらのことが刷り込まれて、名前に沿った人格になってゆくのだと言っていた。

「天使」「海月」「朱里」……最近の「光宙(ピラチュウ)」「姫星(キティ)「今鹿(ナウシカ)」もそれを名付けた思想(まるで何も考えていないということも含めて……)に裏打ちされた人間に成っていくということだよね。



……とここまで書いて来て、どうかな?あれ?って思い始めた。日本人の名前もすでに江戸や明治のころとは大きく違って来ている。現代の名前は彼らからすりゃDQNネームでしかないのだろうし……と思って来た。

アメリカは多種民族国家なので、それぞれの民族の出自に合わせて、思い入れを込めた名前を付ける。
例えばブラックアメリカンの女性にはホワイトの女性にはなかなかない名前を持っている人が多い。「エボニー」「アリシア」「ティアラ」「ジャスミン」など……。
さらに思い起こせば、大学時代の友達はドイツ系の「カーン」で、イラン系は「ムハメッド」、ベネズエラからのスパニッシュ系は「オランド」で彼の彼女は「ビオラ」であった。

つまり、アメリカではもうDQNネームで溢れているという塩梅なワケだ。
(これらの耳慣れない名前を初対面の瞬間で呑み込んで記憶してしまう彼らの才能にはいつも舌を巻いていた。)

日本語は表意文字なのでどうしても名前の“意味するもの”に拘ってしまうらしい。簡明に記号(シニフィアン)だと思ってしまえばいいんだろうな。
 
(完)