おもてなしって何ものだ?

オリンピック招致の滝川クリステルのプレゼンテーション以来、「おもてなし」があたかもA級市民権を獲得したかのようで誠に鬱陶しい。日本の文化が涵養した日本ならではの「おもてなし」と、最上級形容詞のように持ち上げられているのも笑止千万である。
「おもてなし」って和語表現にすると、なんとなくニュアンスが雅(みやび)な趣なのだが、漢語表現で普通に「応接」「接遇」っていえば済むことじゃないのか?


関西大学 文学部 国語 国文学専修の乾善彦 氏の説明によると、
「もてなす」は語源をたどると「もて」と「なす」に分解でき、なす(成す)は「そのように扱う、そのようにする」という意味があり、それに接頭語の「もて」が付いたもの。
「もて」というのは「もて騒ぐ」、「もて遊ぶ」などのように、動詞に付属して「意識的に物事を行う、特に強調する意味を添えるのだそうだ。

つまり、「もてなし」というのは“意識的に扱って目的を遂げる“ということになる。心の襞に入り込み、こちらの思いの方向に操作するという概念がむんむんとするではないのか?それに、美化語の「お」をつけて「おもてなし」で一丁上がりだ。
だから、「おもてなし」→「表無し」→「裏がある」というのは、穿ち過ぎで、それこそ裏読みに過ぎる。とはいえ、どうにしても、これには梅雨時のジトジトした湿気のように“打算“とか“損得勘定“がしっとりと含まれているとは思う。

この「おもてなし

」の類語を考えてみても、「おもんぱかる」「忖度する」「空気読む」「裏読みをする」「深読みをする」「寝技」「政治」「深慮遠謀」

「打算」「トラップに掛ける」……などと世故に長けた大人の像ばかり……。美しいか?

加えて、「日本ならではの……」と冠頭詞のように必ずつく。だが、英語でいうentertainとかhospitalityとどこが異なるのか?treatmentとはどうだ?もっと喜ばせるにはsurpriseというものさえ彼らは用意する。それらより、コレは上等なものなのか?
いずれにしろ、日本の文化のなかの「おもてなし」と彼らのそれらとの間にある差異は文化とか習俗の違いから誘導されてくるものに過ぎず、日本のものがが彼らのものより高度で洗練されているなんて思う事自体が“世間知らず“だ。
この「もてなし」とか「人蕩らし」で太閤にまで上り詰めた秀吉という人物を我々の歴史のなかに持っている。“今太閤”と言われた田中角栄もいる。確かに彼らは素晴らしい人材かも知れないが、必ずしも日本人の「理想的人物像」でもない。(むしろ、善と悪が溶け合った「トリック・スター」なんだろうとは思う……。)
なのに、サービス職、営業職もしくはそれに近い職種についている人間は、この「もてなし」「気配り」の周辺でこれらの“人蕩らしサクセス・ストーリー“を上司・先輩から耳たこで聞く羽目になる。
営業職には営業職としての“本懐”の部分がある。「コア・コピタンス」(競争力)といわれる芯棒である。それにも関わらず、競争力のすべてが“人蕩らし”術とか「おもてなし」法に寄せられて語られるのはいかにも跛行的ではないのか?
さらに悪い事に、「おもてなし」というのは“底なし沼”である。ここまででいいという線引きがいつもない。仮に自分の裁量で線引きなんぞすると、「思慮が足りない」「営業センスに欠ける」時には「社会性に欠ける」などと責められ「頭は常に全回転、八方に気を配って一分の隙もあってはならない」などとお叱言を食らう。
すべての人がセールスマンとか、ホテルマンとかフライト・アテンダントや(アメリカなどの)チップ収入のレストランのウエイターの態度・物腰でいいわけはない。だが今やそうじゃない業種の者にも、常態的にというか、同調圧力的に“サービス残業“→「給料以上の使役の要求」”を強いることになっている。どんどんと“ブラック企業”への一本道の上を走る。
われわれはタフなシリンダーと敏捷なピストンが欲しいのだ。それらを円滑に動かすために潤滑油が必要なだけだ。最高の純度と粘度の潤滑油を追い求めたところで、シリンダーとピストンが旧弊でガタの来ているものならどうしたって救われない。何の意味もない。本と末とを転倒してはならない。
日本の粋とか優雅さを煮詰めたような京都。その京都の「おもてなし」……。
「ちょっと上がっていきなはれ」「お茶漬け食べていきなはれ」「お茶もう一杯入れましょか」は、京都ではすべて「はよ帰れ!」という意味だという。永らく権力への奥座敷、貸座敷であった京都のコンプレックスで凄みのある反語法。ソシュール記号論における「シニフィエ」のごとく、もしくは「暗喩」のごとく、この“素振り“をも読み込み飲み込む教養が「おもてなし」を受ける方にも必要だということだ。これこそが「おもてなし」の本質を衝いているように思える。
(完)