文明と文化


最近、しきりと「文明」と「文化」という言葉とか概念が気になる。

古代4大文明と言えば、メソポタミア文明エジプト文明インダス文明黄河文明の4つを指すことは人口に膾炙している。その後の「ギリシャ」とか「ローマ」も当然の如くに文明にカウントされるだろう。

この「文明」ということと「文化」はどう定義が異なるのか……ということを司馬さんは鮮やかに切り分けていたなって思いだし、本棚を漁った。

アメリカ素描』という著作の中に述べられている。

「人間は群れてしか生存できない。その集団を支えているるものが,文化と文明である。いずれもくらしを秩序づけ,かつ安らがせている。文明とは『たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの』をさすのに対し,文化はむしろ不条理なものであり,特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので。他には及ぼしがたい。つまりは普遍的でない」

つまり、「文明」とは国家・民族・個々の文化や言語を越えて浸透していき、価値観・美意識・ライフスタイルなどに深甚なる影響を与えながらも、既存の文化をサブシステムとして包含し、より広域的な文化ネートワークを備えた“圏”を構成する。

1971年頃になぜ司馬さんはアメリカ取材に行ったのか?

「普遍性があって便利で快適なものを生み出すのが文明であるとすれば,今の地球上にはアメリカ以外に,そういうモノやコト,もしくは思想を生み続ける地域はないのではないか」

と答えを準備している。

最盛期には地中海沿岸、現在のフランス、スペイン、ポルトガル、イギリスまで版図を拡げた「ローマ帝国」の御世を“パックス・ロマーナ”というが、その後七つの海に押し出して幾多の植民地を作った英連邦は“パックス・ブリタニカ”と因み、さらにその植民地から脱して繁栄してきた(多分当分の間…)アメリカ合衆国を“パックス・アメリカーナ”ともいう。

この「パックス・アメリカーナ」って、司馬さんも感じとっているように明らかに「文明」という定義に入る。

ベルナール・ファイというフランスの社会学者が『アメリカ文明の批判』のなかで、

「ヨーロッパは時間の積み重ねの上に築かれているが、アメリカはたんに空間があるだけだ」

と結構酷いことをすらりと言っているが、とても哲学的でかつ解りやすい。われわれがアメリカのさまざまなところで感じる違和感とか素っ頓狂さは多分この「時間」軸の喪失であったのだと思う。ファイはまた、

アメリカでは空間が時間の代りをし、未来が過去の代りをしている」

とも言っている。
うむうむ。時間とか過去というしがらみから解放されたヨーロッパ人の末裔が"空間のみ"のアメリカという巨きな大地でさまざまな挑戦と実験を200余年やってきたことが、人類の20世紀の相当な部分を創ってきたことは確かだ。そして、21世紀もリードして行こうと思っている。なんたって、未来を創るために生まれた国がアメリカなのだから・・・・・・。
(この辺では、いろんな反論はあろうが、黙殺して先に進もう)

この中からキーワードを抽出すると、New&Young,Challenge,Frontier Spirits。その担い手はBest&Brightでなければならない。

じゃ、われわれの文化は?

中国の壮大な文明を輸入しつづけて、やっとそれらしい国家の骨組みを作った。(中国文明が近くになければ、日本なんてなかったも知れない。)それが何とか独自の物を醸成したのが室町時代と言われている。その気になって周囲を見渡してみると、書院造り、茶の湯水墨画狩野派、能、狂言枯山水と目白押しである。鎖国の江戸時代を経てこれらがますます精密化されたんだと思う。
しかしこの「文化」は“数寄”とか“好事”に激しく傾斜していたという指摘はある。武士道の煮詰めに煮詰めた徳目が「潔さ」だとしても、それさえも“数寄”の匂いがする。
その事がわれわれ日本人の指向性とか嗜好を決定したじゃないかと睨む。

急転直下、IT+ネットの話しになる。

Microsoft,Apple,Yahoo!,Google,iPhone,iPad,Android,Twitter,Facebookそしてさまざまなアプリ、Evernote,Dropboxなどなど……。99%という比喩があるが、レトリックじゃなく実際が「アメリカ文明」が産み出したものがほとんど。
かつてのローマ帝国が版図を拡大したら、いち早く「ローマ街道」を敷設したが、日本にも太い「アメリカ街道」が縦貫しているような趣きだ。
アメリカ文明」のことを現代訳ではGlobalizationという。いっそのことはっきりと、Americanizationっていってもいい。

“数寄”好みでは、精々ガラケーしか作れなかったと言ってしまおうか。「文化」しか構築できなかった民族の悲哀なんだね。グローバル・スタンダードの「文明」は“物差し”はいつも自分たちが持っている。司馬さんが違うところで、「文化とはか細いものです」とそっと呟いている。

このブログはもともとが境治さんの『クリエイティブビジネス論』に刺激を受けて書いているのだが、そのなかの次の記述。

過日、バラク米大統領が夕食会を主催した。で、産業界のキーマンを招待したのだと。その顔ぶれはこう。

・キャロル・バーツ(ヤフー会長兼CEO)
ジョン・チェンバースシスコシステムズ会長兼CEO)
・ディック・コストロ(TwitterのCEO)
・ラリー・エリソン(オラクルCEO)
・リード・へースティングス(ネットフィックスCEO)
・ジョン・ヘネシースタンフォード大学学長)
・アート・レビンソン(ジェネンテック会長兼前CEO)
エリック・シュミット(グーグル会長)
・スティーブ・ウェストリー(ザ・ウェストリーグループ創設者兼マネージング・パートナー)
マーク・ザッカーバーグフェースブック会長兼CEO)

境さんも言うように、彼らはアメリカというよりそのまま世界IT業界のトップと同義語だよね。ザッカーバーグを特段としてもみんなまだまだ若々しい。かれら旗手に追跡してくるのはもっともっと若いゼネレーション。そんなことを全部含めて考えて、こりゃもの凄い。勝てない…。

日本はどうすればいいのだろう?
胃に苦い物が分泌されるような絶望感というか心折れ感……。
残されたものがあるとしたら、日本のソーシャル・システムを根こそぎで総取っ替えすることだろうな……?
それが出来ない相談だというのなら、「アメリカ文明」の“植民地”を甘受し続けるしかない。(英語のトリセツを辞書片手で読みながら、デバイスを弄ることを続けるしかない。)

途方に暮れる。
ミネルバのふくろうは日が暮れても飛び立たない……。

(完)